2007/06/01

返答

昨日の記事に頂いたコメントに対する返事がやたらと長くなってしまって、コメントの制限文字数を大幅にオーバーしているらしいので、本文の方へもってきました。
以下それを記す。


・しき@何故何故小僧への返答

いやあ、全然説明する気無くて、思い付きを忘れないように書いただけなのです。
書いたときにはツチノコを使うところが斬新かと思ったのだけれど、今見返してみると、全然イケてないことが判明した。

という訳で、少々解説してみましょう。
意外と長くなったので、或は読み飛ばして頂いて結構。

ポイントは日常会話的なのと哲学チックなのを区別しているところ。
それと私の言ってるところの「反実在論」では日常会話的な実在はアリだが哲学チックな実在はナシ、というところ。

例えば、私は今金平糖をポリポリ喰ってると私は今の自分の状態を認識していて、実際そうしている訳だが、若しかしたらマインスイーパーやりながら氷砂糖を喰ったのを「私は今金平糖を喰っている」と誤って認識しているだけかも知れないし、マッド科学者が私の脳に悪戯したのかも知れない訳だ。若しそうだとしたら、私が今「私が今喰っている金平糖は私の口の中に実在する。」と言ったら間違いな訳だ。或は逆に、実際にそれが金平糖だったときには、私は正しいことを言っている訳だ。なんなら誰か呼んで確かめて貰ってもいい。兎も角このとき金平糖は実在する。
或はもっと色々な人を呼んで確かめてみた結果、私と私が最初に呼んだ人が二人共間違っていたということがあとになって判るかも知れない。そのときにはやっぱり実在してなかったということになるのだが、そのときはそのときだ。私の認識は大抵正常だし、言葉も一応は理解しているので、今の時点で私が間違っていて実際には金平糖は実在しないということは殆ど考えられない。
この金平糖は実在している。
こういうときの「実在」という言葉の使い方を「日常会話的実在」と呼ぼう。
このとき、実在しているか実在していないかは兎も角人間に拠って検証可能でなければならない。さもなくば無意味だ。

で、私が金平糖をポリポリやっているのを目の前にして、それが金平糖であることを自分でも喰ってみて確かめたにも拘わらず、尚「本当にこの金平糖は実在しているのだろうか。本当に?本当に?」と問い続けるとき、その人が意味しているところの「実在」を「哲学チックな実在」と呼ぼう。
では、こういう風に哲学チックに「本当に実在しているのだろうか」と問うことでこの人は何をしようとしているのだろうか。
若しそれが只日常会話的に実在している(つまり錯覚でもないし語の意味を取り違えている訳でもないし、何か宇宙人とCIAの陰謀でもない)だけでなく哲学チックに「実在」している或はしていないとすれば、それで何が言えるのだろうか。
それって人の生活とか倫理学とか政治とかに関係あること?それって神通力みたいなのが無い私にも判るの?若しどうやっても判らないものなら、それって何か意味あんの?
という話。

で、この反実在論の話を誤解した人が、次のように言いたくなるかも知れない。
「反実在論とか言って、実在なんて無いなら占星術の説明と物理学の説明が対立しているときにどちらの説明を採るべきか区別することができなんじゃないの?」と。(この問いは「物理的実在論」といって、物理的なもののみが実在しているのだ、という考えから来ているっぽいが、物理的実在論についての話は、話すと長くなるからまた今度。因みに私は物理的実在論には否定的態度を採っている。)
つまり日常会話的実在と哲学チックな実在との区別を忘れてしまうと、「反実在論」というとどちらの実在も否定しているように聞こえてしまう訳だ。
或は
「占星術的存在者など実在しないけれど痛みとかは実在している、と考えよう。殴られれば痛いでしょう?痛みが無ければ色々と拙いことになるし。痛みは我々の生活とか倫理とか政治とかに非常に重要な意味を持っている訳だ。痛みなんかは実在していると言って差し支えなかろう(まあここまではヨシとしよう。これは「プラグマチックな実在論」と呼ばれる。それが実在しているということは、「それが実在している」という言葉やら文やらの使用が何かの役に立つ、ということを意味する、みたいな感じ。ここまでは私も賛成だ)。然し(と、ここからが問題なのだが)実在なんて無いのなら、占星術の説明と一般的に謂われている心についての説明(痛い、とか)の違いなんて無くなるんじゃないのか?どっちがリアルか判らんようになるんじゃないのか。」と。
が、そいつぁ、「実在」の日常会話的と哲学チックとを区別することを学べば心についての説明と占星術の説明との違いが判るよね、という話です。
哲学チックな実在は兎も角、痛みとかの心は日常会話的に実在している(リアルである)が、占星術的存在者みたいなものは日常会話的にも実在していない(リアルでない)。
ほら、哲学チックな実在無しでいけてんじゃん。

で、「心は実在するのか」というときは、哲学チックな実在について訊いてると解釈するのが妥当っぽいので、問いとして不適切、という訳です。
「心は実在するのか」は日常会話的実在について訊いているのではない、と解釈できるのは何故なら、若しこの人が、心が日常会話的に実在してるのかどうか本当に判らなくて訊いているのなら、我々はこの人に対して「心が(日常会話的に)実在しないなら、じゃあキミは、心など実在しないにも拘わらず一体何をしているのだ?或は心など実在しないにも拘わらず何に問いかけているのだ?」と問い返すだけでいいし、まあ実際そんな解り切ったことを訊く人はいないだろう、と考えられるので。
どのみち不適切な問いな訳です。

今回は「実在」を二種類に分けて考えたけど、実際にはもっと色々な分け方が可能だろうと思われる。
「一寸実在しいる」とか「或意味実在している」なんて言い回しが可能となる感じで。

ごめん、能う上手いこと説明し切らん。
解り難いのは私の説明の所為。
あとはにわ氏か闇住人にでも訊いて呉れ。
上のような内容+αを死ぬ程要約すると、昨日の記事のようになる訳です。


で、「幽霊が怖いのは実在すると思っているから?」という話。
幽霊が怖いのは色々な要因が考えられそう。
そして恐らくは色々な要因が色々絡み合ってるのだろう。
片方で「お化けなんてないさ」と言いながらもう片方で「だけど一寸僕だって怖いな」というように、「お化けなんていないんだ」と強く信じていても、実際に夜の墓場が怖いってことはあり得る。
私だって夜の墓場にでも行けば多少は特別な気分になるだろう。
で、その要因の一つには、実際に少しぐらい「幽霊も実在しているかもなあ」と思っている節があるからかも知れない。Wikipediaの悪魔の証明も参照のこと。
或は、人間は「誰かに脅されている」という状況に置かれると「ここは驚いとかな」と無意識に思ってしまうようになっている(先天的に或は後天的に或はその両方)、ということも考えられる。『エルム街』観てて未だ悪夢も始まってないのに手が汗ばむような状況を想像して呉れ給え。未だ怖いシーンは一度も登場していないのにも拘わらず、「怖いと謂う『エルム街』を観るているのだ」というだけで手に汗握るということはあり得る。若しかしたら、『エルム街』をコメディとして教えられれば、フレディーを見ても笑えるかも知れない。私はコメディとしてしか観れない躰に成って了っているので、笑ってしまう訳です。
こういう場合には、幽霊が実在していようがいまいがどうでもいい訳だ。このとき重要なのは、その状況が何を意味しているのか、或は何を意図されているのか、ということだ。
或は、「幽霊」というのは人を怖がらせる装置として未だ機能しているのだ、というような京極堂的な説明もできよう。あんま説明になってない気もするけれど。若し幽霊が人を和ませる言語的装置として機能しているなら、我々は皿屋敷で和む訳だ。「一枚足りぬ」で萌へぇっ、となるかも知れない。

とか、まあそんな感じで。


イデア論とか独我論が何がイカンのかは、そろそろ疲れたのでまあにわ氏にでも訊いてください。少なくとも私のよりよっぽど的確な答えが返ってくるでしょう。
或は日を改めて。



という感じで、今日の日記に代えさせて頂きます。