私的備忘録。
説明無しを宣言しておく。
言語の対応説を捨てれば実在論を捨てることはグッと楽になる。
対応説と実在論を捨てれば、例えばクオリアについての問題は瞬時に解消される。
クオリアと科学との違いについての問題を、その状況ではどういう言葉を使用するのが便利なのか、という問題にすり替えるだけでいい。
��デネットは微妙に実在論者だったので、クオリア/科学の問題を捨てるのにまどろっこしい説明をしなければならなかったんじゃないだろうか、と、ふと思う。)
或は「人間がお互いに本当の意味で解り合うことはないのだ」というような主張を全く無意味な主張とすることができる。
「本当に」解り合うべき何ものかが言語以前に我々の中に実在し、我々がお互いにお互いを「本当に」解り合うということは、その何ものかに対応する言葉でそれを表現するということだが、それはクオリア的なもの或は純主観的なものなので、科学っぽく客観的な仕方でそれを検証したり確認したりすることは不可能だ、というような考えを否定するのが非常に簡単になる。
・・・後略。
眠い。
ポイントは、対応説と実在論をちゃんと残さず捨て去る、というところである、ということを、私は忘れがちである。
というようなことを風呂の中で思ったという話。