2007/06/03

多元論

またもや説明一切抜きです。
まあ、備忘録。


心は脳にのみ宿るとか、「心」という語が本当は脳或は脳の状態についての語なのだ、という考えは捨て去るべきである。
そんな風に考えるから唯脳論とかクオリアについての奇妙な議論とかがでてくるのだろう。
私の手にナイフが刺さり、私は手が痛くなって、「痛い」という言葉を以て発話し、それを聞いた人が「オーメンは痛がっているのだ」と理解したとしよう。
この人が理解したのは私の何を理解したのだろうか。
私の手に突き刺さったナイフ?ナイフの突き刺さった手?手から脳への神経細胞と脳細胞の状態?「痛い」という言葉の意味とか使用のされ方とか?或はその全部?或は・・・。
この人は私が痛がっているということを理解したのだ。

或は大人数の宴会の席で、食事も一通り終わって皆ビールでも呑みながら楽しくやっている頃、私は尿意を感じ、席を立つときに、飲み干したビールのコップに例えば箸を差して席を立ったとしよう。
周りの人間は、コップに箸の差さっているのを見て、「オーメンはもうビールはいいのだな。」とか「オーメンは箸の入ったコップに酒が注がれることがないだろうと考えているのだな。」といったようなことを殆ど無意識に理解することができるので、私が席を立っている間に気を利かさせてコップにビールを注いだりはしないだろう。
周りの人は、私の心を理解した。
では、このとき、周りの人は、私の脳の状態を理解したのだろうか、或は私のクオリア的な何かを理解したのであろうか、私の感じたクオリアと同じようなクオリアを感じたのであろうか、或は箸の入ったコップを理解したのであろうか、或は・・・。
このとき私の心は私の脳内にあるのだろうか、コップにあるのだろうか、私の一連の振る舞いにあるのだろうか、或は周りの人の脳内にあるのだろうか。
これらのどれか一つのみが正しくて他のものは全て間違っているという考えを捨てるべきである。