2007/06/09

世界、物語、芸術

メンド臭いので飛ばし飛ばし書こう。


人は、少なくとも人間の言語を超越するのでないならば、自らをして自らを超越することなどできない。
それは只の言語上の矛盾に過ぎない。
然し、前の「自ら」と後ろの「自ら」を区別するのであれば、これは可能となるかも知れない。
例えば、前者の「自ら」が何か抽象的な「全体としての自己」を意味し、後者の「自ら」が「自らの自己像」を意味しているとき。

自分のなんとなく無意識に弾いた楽器を延々と録音したのを自ら聴き返して、「そうか、今理解できた、私はこれが言いたかったのか」と気付く、ということはあり得る。

我々は、自分を評価する記述様式を、幾らかは持っている。
その記述様式を以て自らの自己像を造り上げる訳である。
ガキをガキたらしめる特徴は、一つには、この記述様式の貧困に在る。
例えばある形式の服装を好むガキが自らをしてそれ以外の形式の服装をするのなら死んでしまうかのように思えるのは、恐らくはこの貧困の為である。
或は、女は家でという考えを好むガキが女性社員のことを彼女らの女性というだけで低賃金で出世しなくていいと考えるののもの貧困の為だろう。
年齢がどれだけ高かろうと、そういう意味ではガキなのだ。

このセンでいくと、大人になるとは多くの記述様式を自らのものとして獲得する、ということであろう。
多くの物語を知るのだ。
知ることで(二つの「自ら」を区別する種類の意味で)「自らを超克してゆく」のだ。

世界はまだまだ幼稚だ。
物語を語れ。
似非ポストモダン達の言うことに反して、我々のすべきこと、近代にやり残したことは、未だ沢山ある。
一つには、似非ポストモダン達が勝手に「消費物」化した挙句ニーチェの真似をして「我々が殺したのだ」とズレたことを勝手にぬかしているところの、あの、「芸術」だ。


まだあるが、眠い。