2005/06/13

・・・。
読み了えてしまった・・・。
この前読んだ短編集が、よく見ると「京極堂サイドストーリーズ」という位置付けになっていて、こっちを先に読んでしまった所為で、事件の顛末について、推理すべきところ、かなりの部分を予想できてしまえたのが残念だった。
あの、六月三日の日記の、「一人称の女性」とかね。出て来るのよ。
でもまあ、この本は、推理がメインテーマという感じではないので、推理抜きでも楽しめた。
推理小説から推理の成分を少なくするのは、多分良いことである。
私が観るところに因ると、推理小説というのは、読者が推理をして娯しむものではなく、探偵役がどの程度ギャンブルに強いか観る為のものである。皮肉で言っているのです。
私の知る限り殆どの推理小説/探偵漫画というのは、話の中の推理の道筋は或程度しか合理的な構造を持って居らず、最後には探偵役の勘に頼っており、読者にちゃんと謎解きさせる意思はなど皆目無い、というのが普通である。
探偵役は、本に書かれた事実から導き出される数ある可能な事態の中から一つの可能な事態にだけ注目し、その可能な事態について、宛も件の事実から導き出せる唯一の可能な事態であるかのように振る舞い、犯人役は、他の可能性もありますよとは反論せず、そうなのです、全くその通りです、と言う。
推理小説では、真相は、与えられた事実からの合理的な推論からは導かれない。物語が「真相」としたことが真相なのである。
私は殆どの推理小説で、何故探偵役がその結論一つに絞ることが出来たのか合理的に説明できない。多分、探偵役は、べらぼうに勘が良くって、しかもその勘を信じ切っているのだろう。
他の可能性はどうしたのだよ、と言いたくなる。
という訳で、推理小説の探偵は、ギャンブルに頗る強くなくてはならない。


論文(?)の方は、構想用の見取り図だけが肥大していっている。
本文は一向に進んで居らず。
私は何を書こうとしているんだろう。
多分、最近読んだ本の多少一貫性のあるまとめ、みたいなのになりそうな。
哲学的結論を出さないまま終わりそうな。

蚊に噛まれた。