2005/06/12

不確定性

やっちまた。
『姑獲鳥の夏』を読んでしまった。
既に半群程。
いや、ちゃんと論文書こうとしたんだけど。
どう攻めようか思い悩んでいると、つい。

因みに。
京極堂(メインキャストの一人。金田一耕助的位置づけ?)が、物知り顔で、量子論で謂われる不確定性定理について唯科学好きというだけの素人がしそうな誤解をしていたので一寸ゲンナリした。この誤解の源泉は、多分、シュレーディンガーが解り易い反面誤解を招きやすい思考実験を提示したのを、科学好き達がこぞって誤解した所為。
つまり量子について謂われている観測問題を、我々の普段の可視的な生活にも過度に拡大して適用してしまうというやつ。
確かに、例えば或蛙の内蔵を調べるのにはその蛙を解剖するか或はX線を当てても、その蛙の物理的状態を一切変えること無しにその蛙の内臓について調べることは出来ないが、そのことと量子の観測問題とは、似てはいるが、同一のものとして語ることが出来ない別の話である。
因みに同種の混乱は、ゲーデルの不完全性定理とウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの云々」との混同にも見られる。
確かにアナロジーとしては、それらの概念の理解するときなんかに役立つのだが、然しそれらは同一のものとしては扱えないものだ、ということを忘れてはならない。
解りましたか、忘れんなよ、私。はい、気を付けます。

序でに。
京極堂が「心」や「記憶」について程良く唯物論的だが非唯脳論的であるような見解を持っていることに共感を覚えた。
まあその見解の詳細については、納得いくものではなかったが。
詰めが凄く甘いというか。余りに混乱を招くような言い回しをし過ぎるというか。
まあ彼は哲学者ではないし、この小説は哲学書じゃないので。
而も私の論文はこれよりもっと酷いものになるだろう!
あー。駄目だー。