2005/06/08

自由は進化する

本屋にぶらりと寄ると、デネットの『freedom evolves』の翻訳が出ていた。
英語版は未だ一寸しか読めて居らず、また最近読む機会も減ってきてしまっていたので、いつになったら読み終わるのかと思っていたのだが。
私がデネットを読むことを選んだ理由として、デネットの英語くらいは確っかり読めるようになりたい、というのがあったので、翻訳を買うかどうか迷ったのだが、安かったし、邦題が『自由は進化する』という虚飾無しの硬派で直訳なところに好感が持てたし、表紙のデザインもなかなか気に入ったし、それに私にはもっとスピーディーにこの本の内容を理解する必要があるので、買うことにする。
買って二時間程で、今まで私が英語で読んでいた部分は読み終えてしまった・・・。
内容が解っていたのですらすら読めたというのもあるかも知れないが、それでも二時間って・・・。
どれだけ私の英語が駄目か。

序でに京極夏彦の『魍魎の匣』も買ってしまった。
文庫のくせに、分厚い。高い。
読んでる時間ねえってのに。


久しぶりに金縛りに遭う。
本格的な金縛り。
外も暗くなった頃、ベッドでうつ向きになって仮眠していると、誰かが私の手首から先を手で柔らかく押さえつけて拘束したように感じ、私の意識が覚醒する。
その押さえつけ方が上品で優しかったように感じたので、押さえつけられる恐怖の反面、一瞬一寸ときめきなど覚えたが、直後、垂らした柔らかい布の端が触れ、それが腿から背中へ向かって移動しているように感じ、何か牡丹灯籠に出て来る幽霊にでも愛でられているような気分になる。少しやるせなくなる。
そのあたりで私の意識はほぼ正常となり、金縛りという現象に対する生理学的説明を頭の中で再確認したり、どういうときに自然主義的語彙を使うのがふさわしいのかとか、或はどういう点で私は自然主義者ではないのかを考えたり、逆にこういう金縛り現象を幽霊や物の怪を使って面白い物語に仕立ててる為の話の筋など考えたりしたが、牡丹灯籠の幽霊の概念を払拭しきれず、多少恐くなって、また多少恐いということが面白くなって、この金縛りの状況から逃れようと足掻いてみることにする。
体は動かない。
手は依然として優しく押さえつけられたような感覚が残っており、何とか人差し指でも動かないものかとやってみるが矢っ張り動かない。
人差し指というのは、数ある指の中でも、その指を使うことで、何らかの行為主体(それが幽霊や物の怪であろうと)に対して命令を下すときに一番威厳を以って命令することが出来る、というような指なのであるのである。多分。
次に体を下(足側)の方へ何とかずらせて行き、ベッドから降りようと試みるが、意識の方はちゃんと動いているつもりなのだが、実際には体は全然動かいておらず、然し意識の方の計算ではちゃんと動いてもう降りている筈という計算なので、意識と身体的感覚のギャップが「降りたのに降りていない」というシュールレアリズム的で幻想的な世界を造り出し、なかなか面白かった。恐らく幻覚というのはこんな感じなのだろう。
また、声を出そうとするが、出ない。顎も口も動かない。
が、声を出そうとしたときに、息遣いは意識でコントロールできることを発見する。この状況で息だけはコントロール可能である、ということは、興味深い事実だ。このことは何を意味しているのだろうか。
兎も角暫く面白がって鼻息を荒立ててみたりする。
そうしているうちに、若しかしたら、やたらと呼吸を荒立てて酸素過多か過呼吸状態にすれば、体が「ビックリして目を覚ます」のではないかと考えた。
で、やっているうちに、呼吸との因果関係は不明だが、徐々に体が動くようになり、やがて起きあがることに成功する。

相当疲れていたのだろう。ここ数日ちゃんと寝てないし。
が、金縛りは結構好きだ。頻繁にあると困るのだろうが、私には年に一回あるかないかのイベントである。
何らかの永続的な病や障害でもなく、意識と身体的運動の分裂という興味深い体験を自分の体で経験でき、後遺症無しというのは、そうないことである。


ああ、そういえばMacintoshは来年の今頃からIBM製のプロセッサを廃めてIntelのを使うようで。
ということはWindowsが動くのPC/AT機でMacが動くということ?或はMac機でWindowsが動くということ?
Appleといえば、見た目の傑れたデザインや硬派な造りといったハードウェアのWindows機との差異化は一つの魅力であるように思っていたのだが、もしPC/AT機でMacが動くとなると、OS自身の魅力と収益力で勝負する、ということなのだろうか。
いや、でもPC/AT機でMacが動くということが言われた訳ではない・・・。
まあでも未だ来年の話なのでいいか。多分Mac買わねーし。