2011/02/14

音楽を聴くことについて

真っ白な状態への憧れというのは、まあ無いでもない。
謂わばタブララサみたいなものか、或は無我のようなものだ。
これには真理やら物自体やら「在るが儘の状態」やらを直観することや、それらに特権的な仕方でアクセスすることへの欲求が含まれているのだろう。
この欲求は、自分が英雄たりたいという名誉への欲求とも深く関わっているだろう。

然し私は既に私の(或はより正確に「我々の」)記述の仕方を持っているし、それ無しには経験を意味のある経験として経験することができないだろう。
或は一度自分を無くしてもまた戻ってきて私の意味の体系の中に経験を組み込むことができる程度には自分自身でなければならない。
私には境地は要らない。意味することが必要なのだ。
若し意味することが必要なら、「真っ白な状態」というのが「意味すること」を支えているこの生活から切り離されたものであってはならない。
私は私の生きている世界に踏み止まらねばならない。
私には捨てなければならないものなど何一つ無い。
また捨てることを強要されることが許されるものなど何一つ無い。

私は音楽を聴くのに、調子の良いときは、色々考えながら聴く。
自ら作為的に色々な視点に身を置くことを良しとしている。
それで楽しいのか、音楽とは「音を楽しむ」と書くのではなかったのか、と言う人もいるだろうが、これが私にとって正しくて楽しい聴き方なのだ。
それが音楽を理解することであり、自分の意味の体系の中に音楽を組み込むことなんだろうと思っている。
勿論ボンヤリと特には何も考えずに音楽を聴いていて、はっと何かしら気付きや閃きがあることもあるだろう。
私はそれを否定しようとしているのではない。
それどころかその気付きや閃きのお陰で一気にその音楽を理解するということもあるということを知っている。
或は音楽を聴いていてなんだか楽しくなったり悲しくなったりするということを否定しようとしているのではない。
それは音楽を理解することの一つの仕方である。
只私は、音楽が意味の世界の埒外にある或は音楽は無意味だという意見や、音楽を本当に理解するのに「真っ白な状態」になる或はそこへ近づくことが不可欠だという意見に対して異を唱えているのだ。
よく忘れられがちなことだが、音楽は小鳥の囀り以上に理解可能なものだし、それを理解するのに(何かを捨てた者だけに)特権的なアプローチの仕方も無い。

音楽に限らず、恐らくは総ゆる芸術がそうだろう。
ニュースピークじゃあるまいし、その理解の仕方を何らかの権威に拠って強要されることはないし、あってはならない。
その作品の作家が何を言おうと、或はどっかのボンクラ知事が何と言おうと、理解は可能で開かれている。