2008/03/06

お伽達也

余った時間、仙台を只管歩き、只管カフェに入り、只管本を読む。
牛タンが高価らしいということが解ったし、宮城県美術館も改装中か何かで休館しているらしいので、行くところが無くなったのだ。
仙台に特に欲しいものも見たいものも無く。

タイトルが余りにもビミョウ過ぎてずっと敬遠していた森達也の本(「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」Amazon)、昨日色々買った序でに買っておいたのをカフェをハシゴしながら読んでたのだが、今まで読んだもののうち、最も駄作だった。
彼の駄目なところが凝縮されている。
文章表現の土俵における彼は、いつもあと一歩が足りないんだよなー。
取り敢えず、「オウケイ、解ってる解ってる。あっしは空気が読めないだけなんです。」を自ら禁止してはどうだろうか。

メタファーを多用する手法は、伝えたいことの大意を解り易くするのに有効で、例えば皮肉を言ったり、それが明らかに間違ってる或はそれが間違っている理由や証拠が明確なときに「それは間違っている」と言いたいときには大いに役に立つが、そうでないとき、例えば議論の余地があるときや意見の違う相手を説得するときに、メタファーに頼り切ってしまうは危険だ。
そうでないときにメタファーで話を終わらせてしまうと、説明逃れになってしまう恐れがある、と私は思う。
私も説明が面倒臭いときによくやってしまうので、このことについてはいつも反省している。

私はいつも彼に対して、彼の出した結論には多くの場合大して異存は無いし勉強になるのだが、何故彼自身そう考えているのか或は何故そう考えるべきだと彼自身考えているのかについて、もっとちゃんと説明して欲しいと思っている。
「お伽噺の続きを考えることで自分の考えを表現する」という手法は、彼のいつもの説明不足を更に助長するのに役立っているが、彼の文章力や物語構成力の凡庸さを補強してはいない。

序でに。
私も太宰は芥川の次かその次ぐらいに好きです。
否、その次かな・・・。
まあ要するに、大分好きです。