Penelope未だかなあ。
MacやLinuxとWindowsで同じメーラーを使いたいのだけれど、どれにするか、なかなかこれといった決め手に欠ける。
Thundebirdがダメだったので、Sylpheed或はEntourage/Outlook Expressあたりが。
Sylpheedはまあまあ使い易いし、GIMPと同じくGTK+2でGUIができているのも、違ったプラットフォーム間での再現性の面で有利かも知れない。
GTK+にはJAVAとかRuby用のライブラリもあるのか。
Ruby用のは一寸使ってみたいねえ。
で、まあぶっちゃけ殆どSylpheedでいいのだけれど、そこにもう一つの選択肢として、Eudoraが最近になってオープンソース化されたその後継に当たるメーラーのPenolopeにするという可能性もあるのだが、開発ちゃんと進んでんのかなあ。
なんかそろそろできてる筈だったんじゃなかったけ?
私の記憶違いかねえ。
ペネロペのうっかりやさん?。
2007/04/29
2007/04/28
喃語
CDなど買う。
ロックやポップのCDを全く買わなくなって了った。
これは余り良くない傾向だ。
それらが私の人生や芸術や人としての在り方等に何か有用な一撃を加えるところを想像することが今や私には難しくなって了っている。
音楽とは、それが芸術のひとつとしての音楽であるときには、それを聴く人が唯単に気持ちよくなったりするだけのものではない。
音楽は涙腺や脈拍に関わるだけのものではない。
ましてやオシロスコープや経済系にのみに関わるものでも全くない。
音楽は、第一に人の生に関わるものである。
音楽を理解するとは、単にその音楽を聴いて気持ち良くなることではなく、その音楽を自らの(或は他者の、或は人の)生における意味を与えたり解釈したりすることである。
そしてそれらの意味や解釈は将来についてのものであるときに特に有意味なのである。
例えば私の人格的成長を助けるとか、人間の自由の在るべき姿について語る、といったように。
私がロックに対して大した希望を持っていないということは、私にとってロックがその意味を失っているということを示しているかも知れない。
それは少々受け入れ難いことだ。
以上、私的言語或は喃語。
つまりあなたが私を何一つ理解できないのは何故なら私が言語を一言も用いなかったから。
ロックやポップのCDを全く買わなくなって了った。
これは余り良くない傾向だ。
それらが私の人生や芸術や人としての在り方等に何か有用な一撃を加えるところを想像することが今や私には難しくなって了っている。
音楽とは、それが芸術のひとつとしての音楽であるときには、それを聴く人が唯単に気持ちよくなったりするだけのものではない。
音楽は涙腺や脈拍に関わるだけのものではない。
ましてやオシロスコープや経済系にのみに関わるものでも全くない。
音楽は、第一に人の生に関わるものである。
音楽を理解するとは、単にその音楽を聴いて気持ち良くなることではなく、その音楽を自らの(或は他者の、或は人の)生における意味を与えたり解釈したりすることである。
そしてそれらの意味や解釈は将来についてのものであるときに特に有意味なのである。
例えば私の人格的成長を助けるとか、人間の自由の在るべき姿について語る、といったように。
私がロックに対して大した希望を持っていないということは、私にとってロックがその意味を失っているということを示しているかも知れない。
それは少々受け入れ難いことだ。
以上、私的言語或は喃語。
つまりあなたが私を何一つ理解できないのは何故なら私が言語を一言も用いなかったから。
2007/04/27
2007/04/26
2007/04/23
2007/04/22
らいてう
特に何事もなく。
Thunderbird2.0入れてみた。
Gmailも見れるのか。
が、メールのフィルタにどうも私の必要としている機能が無いようで、結局使わないことに。
或条件に一致したものをメールサーバからダウンロードしないように設定したかったんだけれど。
が、それ以外は結構良さそうだった。
Thunderbird2.0入れてみた。
Gmailも見れるのか。
が、メールのフィルタにどうも私の必要としている機能が無いようで、結局使わないことに。
或条件に一致したものをメールサーバからダウンロードしないように設定したかったんだけれど。
が、それ以外は結構良さそうだった。
2007/04/21
二種類のリズム観
ギター弾きのリズムの捉え方は大きく分けて二種類あるように思える。
タイムライン上に等間隔に配置された点を基に捉える仕方と、タイミングの集合として捉える仕方。
或はメトロノーム的な捉え方と呼吸的な捉え方と言い換えられるかも知れない。
前者は例えばカッティングをキメるときなどに有用で、後者は例えば泥臭い感じを出すときなどに有用。
私はこれらを別々の機会に習得した所為で、この二つがひとまとまりの連続体になっておらず、この切り替えに時間がかかる。
私の頭の中にはこの二つを切り替えるスイッチのようなものがあって、必要に応じて意識的にスイッチを切り替えながらギターを弾くのだが、この切替が、私には結構難しく、多少の時間がかかってしまう。
という私の難点を思い出して反省しているところ。
タイムライン上に等間隔に配置された点を基に捉える仕方と、タイミングの集合として捉える仕方。
或はメトロノーム的な捉え方と呼吸的な捉え方と言い換えられるかも知れない。
前者は例えばカッティングをキメるときなどに有用で、後者は例えば泥臭い感じを出すときなどに有用。
私はこれらを別々の機会に習得した所為で、この二つがひとまとまりの連続体になっておらず、この切り替えに時間がかかる。
私の頭の中にはこの二つを切り替えるスイッチのようなものがあって、必要に応じて意識的にスイッチを切り替えながらギターを弾くのだが、この切替が、私には結構難しく、多少の時間がかかってしまう。
という私の難点を思い出して反省しているところ。
2007/04/20
コミュニタリアニズム
じゃあ最近ぺらっと読んだ本の中で紹介するに足ると思った本の話でも。

日本を甦らせる政治思想 菊池理夫
「リベラルコミュニタリアニズム」について簡単に解説してある本。
これで日本がどこかから蘇るかは議論の余地があるが、兎も角議論するに値する。
まあオタクブームと重なって今頃流行ってる「ポストモダン好き」達の主張についてあれこれ言うことを考えると特に。
私はどっちかというとリベラル寄りなのでガチガチののコミュニタリアニズムは採らないが、然しコミュニタリアニズムにはそこそこ興味はあるし、実際私の政治についての考えについて重要な殆どの部分はコミュニタリアニズムと大して変わらない。
但私は、例えば或個人がどのコミュニティに所属しているのか、そしてどのコミュニティの物語を受け入れているのか、ということについては、コミュニタリアン達が考えるよりももっと多重的な仕方で様々の所属し得るし実際そうしていると考えるし、従って、自分の属するコミュニティのメンバー達が当たり前に受け入れている或信念が受け入れ難く間違った信念だと考えたときには、そのコミュニティのメンバー達を説得することも重要だが、そのコミュニティから離脱することを決めたときにはコミュニタリアン達が考えるよりももう少し少ないコストで済ませられる思う。
それから私はコミュニタリアン達と同じく当たり前に受け入れられている或は受け入れられるべき善や悪(特に民主主義にまつわる善悪)を結構強調するが、然し、公的には打ち遣って置いてもそれ程問題にならないだろうと想定されるような種類の差異や、公的に重要な差異ではあるがその差異を保ったままでも共存や連帯が可能となるかも知れないという可能性を残している差異について、私はコミュニタリアン達よりも強調する。と思う、多分。
因みに我々の共通の論敵はネオリベラリズムや差異ばっかり強調して勝手に絶望してるような「ポストモダン好き」の相対主義者達、という訳だ(何度も言うが、これは本物のポストモダンの時代の思想家達が悪かったのではない)。
簡単に言うと我々と論敵との差異は「まともな民主主義」という実現可能な理想や希望を持っているか否か、という点にある。
この本の著者も反リベラルのガチガチのコミュニタリアニズムというよりは、コミュニタリアニズムとリベラルとの共存を可能にする道を、コミュニタリアニズムの視点から探る、といったスタンスを採っているように見える。
まあ私は、少なくとも上記の理由で、彼とは違ってよりリベラル寄りなんだが、まあそれでも彼と私は結構近いところに居ると思う。
なんか最近読む本読む本みんな「ポストモダン好き」一色だったんで、少々ゲンナリしてたところだったのだが、久しぶりにまあまあ近い立場の本を読んで、一寸は深いレベルで自分の考えを検めることができた。
が、この本の欠点は、テイラーとかマッキンタイアとかエツィオーニとか出てくるのだけれど、その重要な思想的背景についての議論も解説も殆ど無かったんで、彼らを知らない人はその上っ面の部分だけしか分からないんじゃないかと思うし、それじゃあ彼らの魅力はあんまり伝わらないんじゃないだろうかと思う。
勿論上っ面の部分だけでも或程度魅力はあるけれど、この本を読むだけならその限定的な魅力が彼らの魅力の全体であるかのように見えるだろうから、読む人が「テイラーそれ程面白くねえ」と思うかも知れないのが一寸悔しい。
まあ私が哲学出身(もう「出身」を付けなければならないのが悲しい)だから思想的背景に興味がより強いだけなのかねえ。
でもかなり重要だと思うんだけどなあ。
最初の方に一寸コミュニタリアニズムの簡単な解説があるんだけど、その後読み進めればより詳しい解説が出てくるのだろうと思ってたら殆ど出てこなくて、こりゃイカンのじゃないかと思いました。
ポストモダン好きとかネオリベラリズムとかに苦言を呈するのは飽きる程繰り返し出てくるんだけど、それを削っていいから、もっと詳しく思想的背景についての解説をするべきだ。
という訳で、或程度コミュニタリアニズムについての基礎知識を持っていないと、著者の主張はなんとなく理解はできてもその主張の魅力やその主張を支えている思想の魅力を理解できないんじゃないかと思うので、コミュニタリアニズムの入門書としては余り良くないかも知れない。
日本語ならエツィオーニとかを読んだ方が入門としてはいいだろう。まあそっちの方が直段は高いけど。
これは内容は平易で理解し易いが、特に深い議論がある訳ではないので、既に入門して了った人が読んでもそれ程重大な収穫は期待できなさそうだ。
深いところの議論が無いのがイカン。
うぉ、なんか今デジャブが!
すげー!
デジャブを感じてるところまでデジャブだ!
え?私、永劫回帰してる?と思える程。
Dioの血に関係が?
本の話に関係ないけど。
で、話を戻すと。
この本のメリットは新書の嵩張らなさ安さとお手軽さかねえ。
という感じです。
まあ読んでも悪いということはないと思う。
それなりに為になるし、結構面白く読める。
まだ色々言いたいことはあるが、デジャブも体験したことだし、明日早いのでもう寝ます。
日本を甦らせる政治思想 菊池理夫
「リベラルコミュニタリアニズム」について簡単に解説してある本。
これで日本がどこかから蘇るかは議論の余地があるが、兎も角議論するに値する。
まあオタクブームと重なって今頃流行ってる「ポストモダン好き」達の主張についてあれこれ言うことを考えると特に。
私はどっちかというとリベラル寄りなのでガチガチののコミュニタリアニズムは採らないが、然しコミュニタリアニズムにはそこそこ興味はあるし、実際私の政治についての考えについて重要な殆どの部分はコミュニタリアニズムと大して変わらない。
但私は、例えば或個人がどのコミュニティに所属しているのか、そしてどのコミュニティの物語を受け入れているのか、ということについては、コミュニタリアン達が考えるよりももっと多重的な仕方で様々の所属し得るし実際そうしていると考えるし、従って、自分の属するコミュニティのメンバー達が当たり前に受け入れている或信念が受け入れ難く間違った信念だと考えたときには、そのコミュニティのメンバー達を説得することも重要だが、そのコミュニティから離脱することを決めたときにはコミュニタリアン達が考えるよりももう少し少ないコストで済ませられる思う。
それから私はコミュニタリアン達と同じく当たり前に受け入れられている或は受け入れられるべき善や悪(特に民主主義にまつわる善悪)を結構強調するが、然し、公的には打ち遣って置いてもそれ程問題にならないだろうと想定されるような種類の差異や、公的に重要な差異ではあるがその差異を保ったままでも共存や連帯が可能となるかも知れないという可能性を残している差異について、私はコミュニタリアン達よりも強調する。と思う、多分。
因みに我々の共通の論敵はネオリベラリズムや差異ばっかり強調して勝手に絶望してるような「ポストモダン好き」の相対主義者達、という訳だ(何度も言うが、これは本物のポストモダンの時代の思想家達が悪かったのではない)。
簡単に言うと我々と論敵との差異は「まともな民主主義」という実現可能な理想や希望を持っているか否か、という点にある。
この本の著者も反リベラルのガチガチのコミュニタリアニズムというよりは、コミュニタリアニズムとリベラルとの共存を可能にする道を、コミュニタリアニズムの視点から探る、といったスタンスを採っているように見える。
まあ私は、少なくとも上記の理由で、彼とは違ってよりリベラル寄りなんだが、まあそれでも彼と私は結構近いところに居ると思う。
なんか最近読む本読む本みんな「ポストモダン好き」一色だったんで、少々ゲンナリしてたところだったのだが、久しぶりにまあまあ近い立場の本を読んで、一寸は深いレベルで自分の考えを検めることができた。
が、この本の欠点は、テイラーとかマッキンタイアとかエツィオーニとか出てくるのだけれど、その重要な思想的背景についての議論も解説も殆ど無かったんで、彼らを知らない人はその上っ面の部分だけしか分からないんじゃないかと思うし、それじゃあ彼らの魅力はあんまり伝わらないんじゃないだろうかと思う。
勿論上っ面の部分だけでも或程度魅力はあるけれど、この本を読むだけならその限定的な魅力が彼らの魅力の全体であるかのように見えるだろうから、読む人が「テイラーそれ程面白くねえ」と思うかも知れないのが一寸悔しい。
まあ私が哲学出身(もう「出身」を付けなければならないのが悲しい)だから思想的背景に興味がより強いだけなのかねえ。
でもかなり重要だと思うんだけどなあ。
最初の方に一寸コミュニタリアニズムの簡単な解説があるんだけど、その後読み進めればより詳しい解説が出てくるのだろうと思ってたら殆ど出てこなくて、こりゃイカンのじゃないかと思いました。
ポストモダン好きとかネオリベラリズムとかに苦言を呈するのは飽きる程繰り返し出てくるんだけど、それを削っていいから、もっと詳しく思想的背景についての解説をするべきだ。
という訳で、或程度コミュニタリアニズムについての基礎知識を持っていないと、著者の主張はなんとなく理解はできてもその主張の魅力やその主張を支えている思想の魅力を理解できないんじゃないかと思うので、コミュニタリアニズムの入門書としては余り良くないかも知れない。
日本語ならエツィオーニとかを読んだ方が入門としてはいいだろう。まあそっちの方が直段は高いけど。
これは内容は平易で理解し易いが、特に深い議論がある訳ではないので、既に入門して了った人が読んでもそれ程重大な収穫は期待できなさそうだ。
深いところの議論が無いのがイカン。
うぉ、なんか今デジャブが!
すげー!
デジャブを感じてるところまでデジャブだ!
え?私、永劫回帰してる?と思える程。
Dioの血に関係が?
本の話に関係ないけど。
で、話を戻すと。
この本のメリットは新書の嵩張らなさ安さとお手軽さかねえ。
という感じです。
まあ読んでも悪いということはないと思う。
それなりに為になるし、結構面白く読める。
まだ色々言いたいことはあるが、デジャブも体験したことだし、明日早いのでもう寝ます。
2007/04/18
2007/04/17
2007/04/16
2007/04/15
林檎、豹、ニス
WRYYYYYYYY!!
APPPPPPPPOLE!
Leopardが10月に延期されるだって?
あと半年!
6月のWWDCで発表されるものだと思ってたのに。
私はいつMacBookを買えばいいのだろうか・・・。
運命は私に「もうDELLにしとけ」と言っているのだろうか。
ギターのネックを削った。
主に80番の紙ヤスリを使ったのだけれども、3時間ぐらいかかってしまった。
60番も買っておけばよかった。
目を細かくしていって、最終的には800番で仕上げる。
その後何度かニスを塗って削ってを繰り返し、今はニスを乾かせているところ。
明日また削って塗って、それから最後に削って終わりかな。
Wolfgang以上に左右非対称ネックにした。
おお、弾き易そう。
強度がそれ程落ちなければいいが。
APPPPPPPPOLE!
Leopardが10月に延期されるだって?
あと半年!
6月のWWDCで発表されるものだと思ってたのに。
私はいつMacBookを買えばいいのだろうか・・・。
運命は私に「もうDELLにしとけ」と言っているのだろうか。
ギターのネックを削った。
主に80番の紙ヤスリを使ったのだけれども、3時間ぐらいかかってしまった。
60番も買っておけばよかった。
目を細かくしていって、最終的には800番で仕上げる。
その後何度かニスを塗って削ってを繰り返し、今はニスを乾かせているところ。
明日また削って塗って、それから最後に削って終わりかな。
Wolfgang以上に左右非対称ネックにした。
おお、弾き易そう。
強度がそれ程落ちなければいいが。
2007/04/14
2007/04/12
当たり前/議論の余地アリ
倫理の概念には、当代の誰にも恐らくは当たり前に受け入れられるだろうものと、大いに議論の余地のあるものがある。
それらを明確に分ける分水嶺はないが、兎も角それなりに多くの場合においてこれらの区別は成り立ち得る。
或はその倫理概念がどの程度「共通のものである或は当たり前に受け入れられる」のかとか、どの程度「議論の余地がある」のかといったことを考えることができるし、またその問題に対してそれなりに正しいと言えるような解答を得ることもできるだろう。
この二つを端的に混同して全ての概念が大いに議論の余地のあるものだと考えてしまうのは不健全である。
ポストモダン好き達や、相対主義者或は相対主義から抜けたくても抜け出せない人達には、この混同が見られる場合がしばしばある。
それらを明確に分ける分水嶺はないが、兎も角それなりに多くの場合においてこれらの区別は成り立ち得る。
或はその倫理概念がどの程度「共通のものである或は当たり前に受け入れられる」のかとか、どの程度「議論の余地がある」のかといったことを考えることができるし、またその問題に対してそれなりに正しいと言えるような解答を得ることもできるだろう。
この二つを端的に混同して全ての概念が大いに議論の余地のあるものだと考えてしまうのは不健全である。
ポストモダン好き達や、相対主義者或は相対主義から抜けたくても抜け出せない人達には、この混同が見られる場合がしばしばある。
2007/04/10
2007/04/09
2007/04/08
2007/04/07
semantech
semantech
http://omen.up.seesaa.net/musik/semantech-.mp3
ちょっくら曲をアップしてみた。
いつも通り、曲名に大した意味は無い。
こういう会社名ありそう。
理系ITベンチャー企業な感じ?
まあそれはさておき。
只管ループ素材の積み重ね。
手を加える毎にダメになってゆく恐怖。
今回のはリズムがはっきりしている。
テクノ?
多少奇妙な拍子だが、まあ気にしない方向で。
眠い。
��ここにアップした音楽は、自由に使って頂いて構いません。その際私に一言連絡する必要もありません。自由に引用したり、批判したり、改変したり、改変したのを他のところでアップしたり、公的な場で演奏したり、それを誰かに売ったりしたって一向に構いません。]
2009/06/03追記:
より態度を明解にする為に、上の楽曲はCreative Commonsライセンスを宣言します。
「帰属」のみです。
帰属というのはCCに拠ると:
Creative Commons JP:
http://creativecommons.jp/
Wikipedeaのクリエイティブ・コモンズの項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA

This 作品 by Ludwig D. Omen is licensed under a Creative Commons 表示 2.1 日本 License.
ちょっくら曲をアップしてみた。
いつも通り、曲名に大した意味は無い。
こういう会社名ありそう。
理系ITベンチャー企業な感じ?
まあそれはさておき。
只管ループ素材の積み重ね。
手を加える毎にダメになってゆく恐怖。
今回のはリズムがはっきりしている。
テクノ?
多少奇妙な拍子だが、まあ気にしない方向で。
眠い。
��ここにアップした音楽は、自由に使って頂いて構いません。その際私に一言連絡する必要もありません。自由に引用したり、批判したり、改変したり、改変したのを他のところでアップしたり、公的な場で演奏したり、それを誰かに売ったりしたって一向に構いません。]
2009/06/03追記:
より態度を明解にする為に、上の楽曲はCreative Commonsライセンスを宣言します。
「帰属」のみです。
帰属というのはCCに拠ると:
あなたは他の人に対してあなたの著作物を――またそれを元にした派生作品を――複製・頒布・表示・上演することを認めます。しかし、その際にはあなたに対してクレジットを与えることを条件とします。或はWikipedeaに拠ると:
その作品の利用に関しての著作者の表示を求めるということですが、まあべつに上の楽曲の利用時に著作者(私)名の表示をしなくても構わないです。
Creative Commons JP:
http://creativecommons.jp/
Wikipedeaのクリエイティブ・コモンズの項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA
This 作品 by Ludwig D. Omen is licensed under a Creative Commons 表示 2.1 日本 License.
2007/04/05
2007/04/04
ユリーカ
私的言語なメモ2。
Eureka!
或種のデリダ好き一派がウィトゲンシュタインの流れを汲む一派の議論を無視し続けるのは、ウィトゲンシュタイン一派の議論を使うと問題が結構簡単に解消されてしまうので、本にするだけのヴォリュームを稼げないからなんだろう。(因みにこれはデリダ自身が悪いのではない。)
それで、本の余りの部分を他の議論に使わなければならないのだけれど、その為にその他の問題を発掘するだけの努力をする気は無いのだろう。
ということを、朝目覚めると共に発見する。
否、或はそもそもあの人達はそれを問題として認識できているのだろうか・・・。
私的言語なメモ3。
そういやエウレカセブンに、「絶望病」という病気があったよなあ。
Eureka!
Eureka!
或種のデリダ好き一派がウィトゲンシュタインの流れを汲む一派の議論を無視し続けるのは、ウィトゲンシュタイン一派の議論を使うと問題が結構簡単に解消されてしまうので、本にするだけのヴォリュームを稼げないからなんだろう。(因みにこれはデリダ自身が悪いのではない。)
それで、本の余りの部分を他の議論に使わなければならないのだけれど、その為にその他の問題を発掘するだけの努力をする気は無いのだろう。
ということを、朝目覚めると共に発見する。
否、或はそもそもあの人達はそれを問題として認識できているのだろうか・・・。
私的言語なメモ3。
そういやエウレカセブンに、「絶望病」という病気があったよなあ。
Eureka!
2007/04/03
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