2006/12/30

第九、希望、表現的自由

私の音楽上のアイドルであるベートーベンの第九に乗せて自由(と平和)への希望を謳うカナダのドキュメンタリーがBSでやってたのを観た。
自動人形の如く「平和」を繰り返す単なる頭の悪い「平和主義」ではなく(つまり「君の頭の中は「平和」だなあ」というのではなく)、指揮者達による様々な解釈や政治的に悪く利用されてきた側面なども示してあって、それでも希望を持つのだと解り易く説得力のある形で主張するというような内容。
NHKは自らこういう種類の優れたドキュメンタリーを撮る力は無いが、たまに海外の優れたドキュメンタリーを流してくれる。
NHKに撮ることができるのは、せいぜい最新の映像技術を駆使した自然の美しい姿くらいだ。

その裏で、奇妙な信念を持った人達が思い付きの口から出任せを言っているその意見に対して細木数子がズバリ狂ったことを言って古館伊知郎がテキトウな合いの手を入れるという吐き気のする絶望的な番組があって、好対照だった。
数字しか気にならないような人達が番組を作っているらしい日本においては、政治的に馬鹿でなければテレビで意見を言うことはできないのだということが実感できる。
馬鹿な意見はまとめるのが簡単だし、他の馬鹿な意見ででも簡単に反論できてしまうという特徴がある。
番組を作る人にまともな普通の意見を探し出してきてまとめるぐらいの能力が潜在的にも無いとまでは言わないが、その顕在能力は皆無だ。
然し報道の自由に関するマスメディアの議論などを見る限り、潜在能力の方も疑わざるを得ないかも知れない。

試しに誰か民放のテレビに出る予定のある人、チョムスキー風にでもデューイ風にでも、或はべつに他のでもいいが、兎も角議論の余地はあるが或程度の説得力を持ったような仕方で(そして勿論現代の問題につながる仕方で)教育について話してみるといい。
私は恐らく放送されないんじゃないかと疑っている。
恐らく放送局の中の誰もそんなまともな意見を求めていないのだろう。

オウケイ。
丁度年末と頃合いもいい。
ベートーベンでも聴くがいい。
我々は表現的自由を持っている。
希望を持とうじゃあないか。