2006/12/28

ナラティブ懐疑論

昨夜未明、PC絶不調、挙動不審、ハードディスクの一つを認識しなくなる。
まあそんなに重要なデータを入れてるハードディスクじゃなかったのだけれど。
一応Cドライブは生きてたし。
恐らくはスタンバイ中に外付けハードディスクの電源を切ったのが不可なかったんだろう。
あれからおかしくなった。
まあなんか適当にいじってる間に回復したんだけど。
いじってる間に陽は高く。
ということで、本日幾らか消耗しております。


備忘録。
ナラティブ好きに対する反論に対する再反論として、マトリックス的懐疑論を更に進めたような、凄くできのいい地球シミュレーターの懐疑論というのをぼんやり考案中。
桶の中の脳の懐疑論はこの場合ヌルくって、人を絶望させるような懐疑論ではないかも知れない。
私が桶の中の脳かも知れないと疑うときには、「我々は主に脳で考えている」とか「脳は電気的に振る舞う」とか「これ桶だ」とかの信念を受け入れているし、その信念を受け入れるに至った自らの来歴に関する信念も受け入れていて、そうすることによってこの懐疑論は可能となるで、もしかしたらそこからデカルト的なやり方でも懐疑論を払拭できてしまうかも知れない。
デカルトの場合は我々の信念の織物全体を回復させるには証拠が余りに少な過ぎて自分が何を疑っているのか解らなくなるぐらいだったが、桶の中の脳の場合は結構いっぱいある。
或は、桶の中の脳第二版で、或夜私が寝ていたらイカレた脳科学者が私に気づかれず私の脳を桶の中に移して・・・(中略)・・・あの娘が今日冷たいのはあの娘が本物じゃないからだ。科学者め、ちゃんとプログラムを・・・(中略)・・・おのれ、目を盗みやがったな!・・・(中略)・・・いいえ、奴は大変なものを盗んでいきました、私の心です・・・(中略)・・・なんじゃこらー、撃たれたー、けどこれは本当の体じゃないので・・・云々、というような懐疑論の場合は、確かに或意味で絶望的だが、懐疑論の物語の警句的役割も今一つだし、ウィトゲンシュタインの出番を待つまでもなく、単に証拠不十分で棄却されるだろう。
マトリックスではちゃんと「外」に真なる肉体とか真なる実在世界とか本当の幸福みたいなものとかが周到にも用意されていたのだけど、新しい懐疑論の場合は我々シミュレーターの登場人物達の信念の正しさはデイヴィドソンの議論とか整合説とかによって保証されているのだ。でもそれは結局のところ、「ビット」とか「情報」とか「ナラティブ」でしかない、というような世界を考えてみよう、という話。
「中の」人は「外の」存在を知ってる場合と知らない場合があるねえ。
知ってる場合でも、一部の、人の不安を喰い物にする神秘主義者を除いては、「外の」人を絶対視することはないだろうねえ。
つまり自分達の自己を「外の」人の意識だとかに基礎付けることはしないだろう。
「中の」人の自己の偶然性は保たれる。
うーん、何の話だっけ。
或は我々がそのシミュレーターを外から観察している「リアルな」人であるとき、そのシミュレーターを止めたり酷い災害をシミュレートすることは倫理的にどうなんかいのう、という話とか。

なんか懐疑論じゃなくなってしまった。

うーん、あんまり私の論文の内容と関係ないのが痛いところだ。
結構面白そうなんだけど。
一寸繋げようがないなあ。
折角風呂の中で考えたのに。

てゆーか何やってんの、論文書けよ、私。