2015/12/09

素朴な金銭的価値

言うまでもなく当たり前なのだけれどよく忘れがちというようなことは、日々の生活の中で色々と出てくるものだ。
「価値」と「価格」が別の言葉であるということは、「経済」そのもの自身は計量化の対象でないということと同じぐらいよく忘れられがち。

以下私的言語メモ。

3,000円の紅茶と2,000円の紅茶があって、2,000円の紅茶を買いました、と。
まあ私の財布の中の現金の合計が2,000円分減ったりするわけですな。
然し、「3,000円の紅茶には3,000円の価値があり、2,000円の紅茶には2,000円の価値がある、それ故3,000円の紅茶の方が2,000円の紅茶よりも価値がある」という言説はとても奇妙に聞こえる。

3,000円の紅茶にしろ2,000円の紅茶にしろ、その値札に書かれた値段分の金銭的価値があるというのはまあ(税金やら会計学上の細かい問題はしばらく問わないとして)そんなにはおかしい話ではないので、「3,000円の紅茶には3,000円の価値がある」ってのもまあ理解できる。
まあこれを「素朴な金銭的価値」とでも言おうか。
但「価値」ってのは金銭的価値も意味し得るがそれだけを意味する語ではない訳で、従ってこの「それ故」以降の話が論理が通ってない感じなる訳だ。
3,000円の紅茶には3,000円の価値があるが、3,000円の紅茶の価値は単に3,000円であるに過ぎないということはない。
(あ、因みにこれは価格決定のプロセスの曖昧さについてとか、一意に決定可能な妥当な価格というマクロ経済学気取りの与太についての話じゃない。もっとド低俗で頭の悪そうな話をしているのだ)
素朴な金銭的価値基準でない、他の価値基準からしてみれば私の買った2,000円の紅茶の方が私の買わなかった方の3,000円の紅茶より余っ程価値があると言えるかも知れない。
素朴な金銭的価値基準を用いれば、まあ既に数字で表記されているので、なんか比較したような気分になれる。お手軽に。
然し実際に何か「価値を比較する」と言うとき、その素朴な金銭的価値の比較だけをするってことは殆ど無いんじゃね?
色んな妥当性のある価値基準やら価値観が存在しているし、その中の大部分がなんかエクセルとかR言語とかでどうにかできるようにはなっていないし、そもそもどの価値基準群をどのくらいの配合で適用すべきなのかを(我々の生活世界の外側から、「神の視点」で)一意的に決定するような何かが存在する訳でもないので、「価値」と言って価値全体(そんなものが仮に意味を成すとして)をお手軽に比較することはできないのだけれど、だからと言って素朴な金銭的価値の比較のみを価値の比較として有効と認めるってのもおかしな話。

まあそんな訳で、ベートーベンが首から値札を下げていなかったからといって「芸術には価値が無い」とか言い出すのは一寸どうかしてる。
当然、ポロックの絵が何十億とかだからといってそれ故直ちに芸術的価値が他よりなんかすげーって話にもならない。