2011/10/08

マリア

本屋に行って、「純潔のマリア」」(→Amazon)新刊出とるわ、と思って値段も見ずに適当に買ったら限定版で、結構高かった。
一緒に買った星野之宣の「スターダストメモリーズ」(→Amazon)、でかくてぶ厚いヤツと同じぐらいの値段だった。
スターダストメモリーズは値段を見て買うかどうかかなり迷ったぐらいだから、純潔のマリアもたまたま手に取ったのが限定版で他に通常版があるということが判ってたら、どっちを買うべきか迷うぐらいはしたかも。
でも結局限定版を買ってたような気もしないでもない。

「純潔のマリアって、未だ2巻なのか!
もう一寸出てたのかと思った。
濃いのね。
私はコーヒーでも漫画でも濃い方が好い。

2巻の感想。
漫画家マジすげー。
くっそー、マジ漫画家すげーな。
なんで私、ギターなんかチマチマ弾いてんだ。

昨日ジョブズが死んで意外と動揺したが、例えば石川雅之が死んだら私、多分結構絶望すんぜ?

2011/10/06

リンゴのスター

今日、ジョブズが死んだ。
もしかしたら昨日だったかも知れないが私には判らない。

tech系ニュースばかり読んでいる所為かも知れないが、今日一日その話で持ち切りだった。
ニュースを信じるのに少し時間が掛かった。
生前、ジョブズのことは別に好きでも嫌いでもなく、どちらかというと少し嫌いの方に傾いているぐらいの感じだったのだが。
嫌いといっても、世の中のもののよく解っていない経営者や経営者気取りの物書きどもが誤解と手前勝手な解釈に基づいて阿呆なことを言い散らすときの引用元だったから、というぐらいの理由で、実際彼自身どうこうという訳でもなく、「ジョブズ」という特別なアイコンがなんとなく嫌気を誘ったくらいの感じだ。
それにも拘らず、結構ショックがでかかったのが自分にも意外だった。
MJが死んだ時ぐらい動揺した。
MJというと、私が多分生まれて一番最初に自覚的に好きになったミュージシャンで、彼の歌の様式が幼い頃聴かされた教唆的な童話のように私の(普段使いの)音楽的思考様式に染み付いてしまっているような、それくらい私に影響力のあった人物だぜ?
MJは当時既に私的に「過去の人」のカテゴリーに片足を突っ込んでいて寧ろ「再評価」の対象だったとは言え、当時にも、兎に角再評価の必要があったぐらい、私にとって結構重要人物だったのです。
それとタメ張るんだから、結構動揺したことになる。
多分、AppleのCEOを退いたとは言えまだ暫くはAppleとAppleを取り巻く世界にガリガリ影響を与え続けるだろうと思っていたということが、ショックがでかくなった要因の一つだろう。
あとAppleのCEOを退いたのが最近のことで、それに伴ってジョブズが世界に残した業績とかジョブズが変えた世界とかについてあーだこーだとついさっきまで色々言われていて、世の中のジョブズ熱が高まっていた矢先のことだったというのもあるだろう。
彼が死んで、私の手の届く範囲の世界がそれ程変わるようには思えない。
私はiPodもMacも使っているが(私と彼との関係は第一にはApple社製品を介した関係である)、それが彼の死に因って何か大きく変わるという訳でもないだろうし、恐らくはiPhoneを使っている人にとってもそうなんじゃないかと思っている。
少なくとも中短期的にはそうであるように感じる。
にも拘らず、ショックがでかかったのが意外だった。

アクラシア習慣

最近割とギターを弾いている。
良い傾向。
自分の現在の実力とか調子のアップダウンから考えると、ここ暫くは結構よく弾ける状態をキープできているように思える。
でもどっちかというとピアノとヴァイオリンの練習をすべき!
継続的に練習しないから上達しないのだ。
上達しないからサボるのだ。

あとそろそろ気温もいい感じになってきたので、ちゃんと走ること。
筋トレもやっといたほうがいいだろうが・・・私に多くは望むまい。

やっておく必要があることは習慣化しておいた方がいいと思うんだけど、思い付いたときに思い付いたことができるような状態に在る方へと引き寄せられてしまう。
自由時間を兎に角できる限り多く確保しようとしてしまうという無意識的な傾向があるのだ。
まあ時間があったところで大したことは思い付かないし、思い付いたとしてもどうせ腰が重いんだけど。
あと私、自分で決めた計画でもよくサボる。
アクラシア。


カメラを買ってしまいそうでヤバい。
イヤ買わないんだけど。
私に十分な金があって、GF1も持っていなかったとしたら、今は結構、カメラを買う機にあるように思える。
今か、或はニコンが新しいフルサイズのエントリークラスのを出して暫く経ったぐらいが機。
私の頭の中の変なスイッチが入ってしまって、Amazonとかで新しいPENとかをポチッとしてしまって、我に返って口に枕を押し当てながら「アーッ!アーッ!」と叫んで頭を抱えている自分の姿を想像できるのが恐ろしい。
もうダメだ。死にそうだ。

カメラなんかそんな使わねえのにな!
なので買ってはいけない。
なんでアイツはこんなに私の物欲を刺激するのだ。

ここはもうGF1を恋人のように扱うしかない。
GF1と私、一対一の排他的関係に束縛するのだ。
ああ、恋人は駄目だ!私はすぐに慣れてしまうだろう。
片思いの相手ぐらいにしておいた方がより私の心を束縛しておけそうだ。
だが然し。
Love is over.
ああ、Love is over!
なんて恐ろしい!
誰も私をひとところに囚えたままにしておけないなんて。
「ああ、GF1・・・そんな人もいました・・・」なんて気取って言いだすに違いない。
そして軽い自己嫌悪のフリでもするのです!

まあ富籤でも当たれば買ってやらんでもない。
そうですか!買って戴けますか。
だから富籤に当たったらね。

2011/10/05

モノクロ用レンズ

ニコンの古いレンズが有るのだが、GF1で使うとなんかチョイと色とかが変なのです。
で、あんまり使ってなかったのだけれど、モノクロで撮ると意外と好い感じになることを発見する。
てことで、レギュラーに昇格して鞄の中に常に入れている。
然しマイクロフォーサーズのレンズに比べると大分でかくて重いんだよな・・・。


今朝も寒くて目が覚める。
さて。
蒲団圧縮袋から蒲団を出すべきか。
袋から出したら一度天日に干したいのだけれど。
干さずに被るか。
今日はまだそんなに寒くならなさそうなので、夏用の毛布で我慢するか。
どうすっかな・・・。
取り敢えず一寸厚着して寝てみるか。

2011/10/04

秋、リンゴ

そろそろ蒲団を秋用にしないと不可ないんだけど、布団圧縮袋に入ってるヤツを一旦天日干ししなければならない。
然しなかなか干すタイミングがないのよね。
なので未だ夏用の毛布。
寒くて目が覚めることがある。


5~6個とかの袋入りのリンゴを買っても(不味くて)余って腐らすことが多い。
私の家の近くのスーパーは生鮮食品が高くて管理が悪くて不味いのです。
何度か、今度こそはと買ってみるが、結局不味くて食べなくなり、余らす。
なので、今度買って余ったらすりおろしリンゴにでもしようかね。
折角フードプロセッサがあることだし。
なんかリンゴってすりおろした瞬間に健康に良さそうに見えるのは何故だろう。

2011/10/03

玉ねぎクラウド

Cloud
Cloud posted by (C)Ludwig D. Omen
トイレンズの試し撮り。
Holgaのマイクロフォーサーズ用のヤツで、周辺光量落ち機構を取っ払ったもの。
でもイマイチ使いどころが無いのよね・・・。
色々中途半端でさあ。

雲といえば。
以前はクラウド或はクラウドコンピューティングといえば、サーバが複数箇所にあって、サービスを利用するにあたってどのサーバに繋がってるかユーザーには分からない(或は意識させない)ようになってるようなサービス形態、或はそれ故サーバの存在自体を意識させないようなサービス形態を指していたように思える。
つまりユーザーから見ればサービスが「どこどこのサーバ上」ではなく「雲の向こう側」になんとなく存在しているぐらいの感じに見える訳だ。
或はひとつに見えるサービスが複数箇所に存在するサーバによって成り立っている様が、ユーザーには形の曖昧で一定しない雲のように感じられる訳だ。
あとサーバが複数箇所に存在しているが故の堅牢性も暗に含意されていた気がする。
現在では単にSaaSとかシンクライアントとかと殆ど同じ意味で使われていることもあるようにも見える。
或は何故か妙に限定的に「データをネット上のサーバに預けて必要なときに必要なデバイスに落とせるサービス」みたいなことをなんとなく意味していることもあるっぽい。
これらは別にまあサーバが1台でも成り立つ話。
なので、それがなんで「クラウド」なん?雲と何が関係あるん?ちゅう話になる感じか。
で、何が「クラウド」なのか、何を以て「クラウド」と言われているのか、今や状況や文脈からも意味を確信できないことがあるぐらいにギャバガイな言葉になってしまっている、と。
「クラウド」とか言ってもイマイチ何が言われているのかはっきりしないので、もうこれバズワードじゃね?という話になるっぽい。
という私のぼんやりとした理解。


玉ねぎを大量に炒める。
2kgぐらいか?
家の中全体がすげー玉ねぎ臭い。

ミジン切りにするのにフードプロセッサが大活躍。
もうこれ無しではミジン切りができない・・・。
皮を剥くだけで目と鼻にダメージを食らうので、包丁でミジン切りなんてもうやってられない。
昔はやってたけどな!
皮を剥いてヘタを取って6等分ぐらいに切り分ける為だけにゴーグルをかけてる。


私的言語メモ。
ガリガリに確定的なこと(或は大文字の真理とか絶対の絶対に確実なこととか)など何も無い、なんてことはよく言われることだし、そう考えておいて困ることはまあ無いだろう。
然しこのことから「十分に確信に足ることなど何も無い」というようなことを(多くの場合、夜陰に紛れて)導きだそうとするからおかしなことになるのだ。
確実性とか信頼性について、程度にまつわる議論が無視されている。
生きて生活している人間にとってより重要である議論が無視されているのだ。
なので物理学的事実と占星術的事実とが「フラット」になってしまったりするような、普通から見ればアホらしいことになるのだ。
「この重りについて色々検査した結果、物理的にはどう見ても53kgなのですが、占い師は100kgだと言っています。序でに通り過ぎのおばちゃんは、見た感じ10kgぐらいじゃね?と言っています。私には何が正しいのか判りません。」
我々に真理の基盤を与えるような「世界」が存在しないからといって、別に「これは私の手である」とか「これはMacBookである」というようなことについての確信が揺らがなければならない訳ではないし、「これは私の手である」を不健全な推論とする理由として「the One True World」の不在を持ってくることは適切でない。てか無理。
恐らく、「〇〇であることは確かである」というときに限って実用的な確かさではなく「the One True World的に確かである」というふうにとりたがる、というハエ取り壷があるのだ。

2011/10/02

アマゾニアン

なんか最近、生活用品のかなりの部分をAmazonで買っている。
実店舗で買い物をすることが非常に少なくなった。
なので財布の中身が余り減らない。
流石に毎日の食品はスーパーで買うけど、それも大体カードを使うので、結局財布の中身が減らない。
なので一寸金銭的に余裕があるような錯覚を得るが、実際のところは収入を鑑みてもそんな筈はない訳だ。
あぶねえなあ。
一応気を付けてはいるし今のところ管理できてはいるのでイキナリ破綻するようなことはまあないだろうけど。
たまに気が抜けそうになることがないでもないので、もう少しビビっておこうと思う。