離脱派と残留派との割合はほぼ拮抗していて、投票前の世論調査も調査の度に違う結果が出てたが、日本の中では「まあ結局流石になんぼなんでも最終的には残留ということになるやろう」的な楽観的な雰囲気があったように、今思えば思える。
経済的側面を見るなら、離脱してしまうと世界経済的に少なくとも短期的にはどうやってもマイナスになるだろうし、イギリス経済自体も沈んでなかなか浮き上がってこれなくなりそうだし。
移民問題とかもEU抜けてどうにかなる感じでもないし。
流石に離脱派を気取っている連中も投票する段になればそろばんぐらい弾くやろう、というような雰囲気だったように思える。
然し結局、僅差で離脱という結果になった。
私の目に入ってくるニュースでは、大体のところ、これは愚かな結果ということになっている。
現状に不満があって何かを変えたいが、実際に何を変えればいいのか(そして何を変えてはならないのか)を理解していないし考えてもいないにも拘らず、単に「変わる」というだけのことで、その変わった結果やその変化にまつわる諸々の因果関係について大して考えもせず感情的になんとなく投票した結果、みたいな雰囲気で私に伝わってくる。
まあよくある話・・・というか我々に常に付き纏ってくる話ではあるかと。
今回のが実際にそうなのかどうかは、イギリスの情勢を常にチェックしているわけではなかった私には判断しかねるが、然しありそうな話ではある。
EUを抜けることで少なくとも短中期的には変化に伴う結構なコストを支払わなければならなが、その後のイギリスに関する、そのコストを支払ったに値するメリットについてのビジョンを、イギリス国民の離脱派の多くが持っているかと訊かれると、「持っている」と具体的に想像するに足るだけの離脱派についての情報を私は持っていない。
これが衆愚の結果なのか、或はそうではないのか、私には判断がつかない。
民主主義は必ず衆愚に陥るという話をたまに聞くけど、必ずってことはないと思う。
制度設計がヘタだと衆愚に陥り易くはなるだろうけれど。
衆愚ってのは、作られるもんだぜ?
基本的に個人は、何かのスペシャリストであることはあっても、社会の全ての重要な事柄に十分に通じているという人はまあ殆ど居ないだろう。
多くの人は、どれかの質問には答えられても多くの質問には十分には答えられないだろう。
色々な問題が絡み合う政治上の問題なんか、誰がマトモに答えられるかっちゅう話。
これだけを見るなら、なんか民主主義って衆愚に必ず陥るっぽく感じるかも知れない。
まあでも衆愚好きの人の多くは、自分が知っていることを多くの人が知らないことに優越感と孤独を感じ、また他の人が知っていることを自分が知らないことに頓着しない感じの人達なんだろうと思う。
統計の使用について少しでも学べば、例えばよくあるTVのフリップに描かれた犯罪が増加しているかのように思わせるグラフの騙し絵に気付くことは容易だが、然し多くの人がそれに騙されることに苛立ちを感じ、騙される多くの人が愚かに見えるだろう。
私も例えば音楽について、音楽を余り聴かない人と話すときに一寸した優越感と強い孤独を感じるのだ。
でも向こうも向こうで気を遣ってAKBの話振ってもAKGのヘッドホンのことしか知らない私に対して苛立ちを感じているのだ。
なので、できるだけ色んな人を集めて議論しましょうってのが民主主義では要るんですな。
議論に参加したら以前と同程度に無知のままという訳にはいかず、知識やら考え方やらを他者から学ばなければならない。
いつまで経っても自分の元々の意見を漠然と喋り続けることは普通「議論」とは呼ばない。
ほいで、そのときになって学ばなければならなくなるコストを下げつつマトモな議論が成立する為の教育(特に基礎教育)が重要になってくる訳ですな。
でも何故か教育に金が割かれない不思議。
やっと高校が無償化されて各家庭の子供に掛かる金銭的負担は減ったけど。
例えば人件費はもっとかけて、教育者には教育の仕事をさせて、そして仕事の分は金を払わないと。
議論の調整役としてTVとかのマスメディアが期待されるが、未だにその役目を十分に果たしたことは無い。
Come and play, come and play, forget about the movement. (RATM)でお馴染みの。
そういや最近トム・モレロが全ての音楽は多かれ少なかれ政治的だというようなことを言っていたが、完全に正しい。
例えば「私は政治的でない」という発言はきわめて政治的なのだ。総ゆる表現は政治を含むことから逃げ切ることはできないし、総ゆる表現者は自身の表現が社会に対して幾分かの政治的責任を負っていることを自覚すべきだ。
馬鹿をやるならその上で馬鹿をするのだ。
総ゆるTV番組は直接的であれ間接的であれ政治的であるということに自覚的であるべきなんだけれど、残念ながら逃れられることのできない責任から逃れたつもりになっているように見える。
併し国会で人が喋ってる時にヤジ飛ばしたりする信じ難いアホが衆参議員とか、ヘタしたら総理大臣までできちゃう狂った国がこの世のどっかにあるらしい。
まあそいつら椅子の数しか数えられないので椅子の数だけで話を決めるし実際議論とか必要無いっぽいしな。
なので考えるべきことは死ぬ程ある筈でも議席無駄なので減らそうとかしてるし。
実質賃金下がっても額面が増えたら賃上げキてるとか素面で言っちゃえる連中だし。
まあアレ、慥かエコノミクスじゃないらしいしな。経済学じゃないならしょうがない。
なんつったかな。取り敢えず株価でも何でも額面増やしときゃ大体ハッピーやろノミクス。
ヘタに教育に金を掛けて教育水準でも上がってしまったら頭悪いこと言ってるのがバレて困るんでしょうな。ポル・ポトとかの感じで。
日本でもそろそろ参院選があるし。
リベラルコミュニタリアン(リベラル多め)ぐらいの感じの私は、いつも入れる政党が無くて困る。
最左翼の更に左側を自認しているが、コミュニズムでもリバタリアンでもアナキズムでもない。
つうかコミュニズムとリバタリアンてなんか逆の存在のように思われている気がするけど、決定的に違うところはあれ全体的には言ってることは結構似てるし、私には人間についての本質的な見解のところで同じ仕方で躓いているように見える・・・。
まあそれはいいとして。
個人の複雑な政策についての見解の多くをこれっぽっちの種類の政党(しかも言ってることは私からしたら似たような感じに偏っている)で代表できんのかと。
例えば原発-エネルギー政策に対する態度だけでも何通りもあって、それをそれっぽっちの種類の政党がなんぼ程拾えんのかと。
「2大政党」のときとか、なんで自民党と自民党Bチームとの間で選ばなあかんねんと思ってた。
右と左で話ができる程現代位の政治はシンプルじゃないし、そもそも民主党は全然左じゃねえし。
どんなけ左側広大やねん。一緒にすんな。と思ってた。
序でに少数意見を拾わないのは国としてマイナスと考える。
あと党員の政党への縛りを緩くする(造反歓迎にするとか)か党というものを無くしてもっと他のフレキシブルな形に変えて欲しい。
意見を或程度は変えることを許容しなければそもそも議論は成り立たない。
政党という縛りの所為で国会で議論が成り立たないし、国会が議論の場ではないことを知っている国民は一度投票してしまえばなんか御役御免みたいに感じてしまう。
複雑な政治を不適切な形で簡易化してしまっているものが現代の政党だと思う。
団結の、今や間違った仕方になってしまっていると思う。
なので、衆院選の小選挙区とかマジ狂ってる。
投票の選択肢は狭まり、小政党に不利で少数意見を拾えず、而も反政党だと比例区はあんまり意味を成さない。
団結の、今や間違った仕方になってしまっていると思う。
なので、衆院選の小選挙区とかマジ狂ってる。
投票の選択肢は狭まり、小政党に不利で少数意見を拾えず、而も反政党だと比例区はあんまり意味を成さない。