2015/03/15

世界が存在しないことを証明できないだって?なんてこった!

独我論というものは、それ自体を真面目に相手にする必要があるかということは取り敢えずは兎も角とするとして、まあ色々なバリエーションが考え得る。
他者全てが哲学的ゾンビ仮説だとか桶の中の脳仮説もそのバリエーションの中に数えていいだろう。
その色々ある独我論の共通のポイントの一つは、
・自分は存在しているが、それと同じ「存在」の意味で他者(或は世界とか)が存在することが確かではない
という点が挙げられる。
取り敢えずは自分は存在している訳ですな。コギトエルゴスまない訳ではないのですな。
このとき、「他者が存在する」と言い切ることができない、といことと同時に、同じレベルで「他者が存在しない」と言い切ることもできない、ということも含んでいることは忘れがち。
つまり独我論というものは、他者の存在とか日常的な存在論に対して疑問を投げかけるものではあるが、それらを直接的に否定するものではないんだよな。
例えば「独我論は利己主義や享楽主義を許容する」みたいなことは言えない。
独我論は他者の存在を前提としている倫理学に対する攻撃にはならない。
他者が存在しないということを認めている訳ではないのだからして。
存在しないかも知れないし、存在するかも知れないのだからして。

まあ独我論のこういう性質のお陰で、独我論を真っ向勝負で否定できないとしても特に問題が無いのだろう。
例えば存在論の話の導入としては使えるのだけれど、そこから更に足を伸ばして独我論自体を倫理学上の問題として捉えたりしようとすると一寸厳しい。

「独我論」という字面から受ける印象から比べると、独我論ってのは割と無害なものだ。
毒にも薬にもならない。

というようなことを風呂の中で思う。
まあ私は哲学的ゾンビですけど。いやマジで。

イヤ、どうだろう、この場合「あなたは実は哲学的ゾンビですけど」と言った方が面白いのかな。

哲学の授業中に
先生:という訳で、コギトエルゴスむんで私には意識があるし私は存在します。然しあなたに意識があるのか私には解らない訳です。
生徒:あ、バレましたか。実は私には意識が無いのです。
先生:おまえぇぇぇぇぇっ!
という場面を想像してニンマリする。