2006/01/29

技術、自由、詩

沢山ギターを弾く。
テーマは「速く、正確に」。
80年代後半から90年代前半風に。
最近、基礎を怠けていたので。
音楽を奏でる実践においては、16分のカチカチしたピッキングは余り趣味ではなくて、寧ろレガートなのとか、ピッキングの強さとかタイミングとかで表情を付けたりする方が好きなのだが、然しそれは正確な16分のカチカチしたピッキングができるということが前提になっている。
つまり、メトロノーム通りのカチカチしたピッキングの方が技術として基本的なものであって、その応用として、ピッキングの強弱やタイミングについての技術があるのだ。
正確なピッキングができないにも拘らずラフなピッキングをして「これが自分の味なんだ」と思っているギタリストなんかは、まあ本当にちゃんと味があれば、それはそれで素敵なことだけれど、でも「自由」に関して言うと、それはより弱い意味での自由でしかないんだ。
私はもっと自由が欲しい。もっと、音楽家として自由になりたい。
それから序でに言っておくと、私は「自由それ自体に価値がある」ということが正しいことであるということにコミットしている。
私は「自由」と「芸術」を殆ど交換可能な語として使用するし、それが不適切な使用であるとは到底思えない。
私は芸術を溺愛するのと同じようにして、自由を溺愛する。
そうすべきだと思う。芸術創造に関わる者として、とりわけそうすべきだと思う。

能力の豊かさ無くして自由はあり得ない。
更なる自由を得たくば、更なる能力を得よ。

そういや"expressive freedom"って、どう訳すんが普通なんかねえ。
「表現的自由」みたいにテクニカルタームっぽくいくんかねえ。
でもこれは一見して明快に解るような訳語ではないように思う。
或は「表現にまつわる自由」とか?一寸イモっぽいかな?而も一部の(←皮肉を言ってるのです)マスコミ関係者が他人のプライベートを侵害したりするときに素面で間違って理解して臆面も無く使っている、「表現の自由」と同一視されそう。
本当に、あの人達を志向システム(デネット参照)とみなすのにどれほど苦労することか。自分の自由(想像力を働かせる能力にまつわる自由)の限界をひしひしと感じさせるほどだ!勿論皮肉を言ってるんです。
まあそれは兎も角。
「新しい表現を可能にする自由」とか「表現の豊かさを生む自由」みたいになると、余分に説明し過ぎているっぽい。でも意味は大体そんな意味で。でももっとスマートに。
んー。
「詩(ローティ)」でいいか。テクニカルターム然としている。


という私的言語で書かれたメモ。排他的「自己」領域。