2016/04/01

哲学的ゾンビの存在証明

よし、未だ4/1だな。

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哲学的ゾンビの存在が科学的に証明された。
結局のところ、デカルトが正しかったのだ。
心とは、我々の言語的乃至物理学-生理学的振る舞いについてのものではなく、「意識」というそれ自体独立した体系であったのだ。
「私」とは脳内の物理的なニューロン発火パターンによって接続された意識のことである。
例えば「見る」ということは、光が視細胞を刺激し、その興奮が神経を伝わって大脳の視覚野で画像処理された後、その処理された画像を意識が取得することに因る現象である。
意識は大脳というカルテジアン劇場の中に存在している小人である。
デカルトは後の哲学者から「ではその小人の意識はどうなっているのか」と批判されてきたが、結局のところ、小人それ自体が意識なのである。

これに因って、例えば直接的な知や所与に至る道筋が開けた。
つまりカント的色眼鏡の存在が明らかになり、それについて研究することができるようになった。
哲学の悲願であるところの、偏見を取り除くということへの道が開かれた。
我々は本当の意味での正しい知識を得ることができるのだ。
カント的色眼鏡の問題が解決すれば世界それ自体へのアクセスが可能となるので、例えば翻訳の不確定性は取り除かれるであろうし、また事実判断と価値判断とを正しく分けることができるようになり、それらの間の関係を解明したり科学から道徳を削ぎ落とすことが可能となる。

或は例えば人間と同じように振る舞うだけのアンドロイドは草薙素子的ゴーストを持つことはない、ということができ、従ってそのようなアンドロイドに対する人道的扱いについて考える必要が無くなった。

或は我々は中国語の部屋の住人である。
「理解しているかのような振る舞い」から「理解している振る舞い」を分けることができるということが証明された。
手を挙げるということから手が挙がることを正確に分けることが可能であるということが証明された。
我々は振る舞いではない。我々は世界ではない。我々は意識なのだ。

我々はカルテジアン劇場の前でコントローラーを握っている、「世界」というゲームのプレイヤーである。
普段、「プレイヤー」という概念はゲームの世界でのキャラクターを指すこともあればそのキャラクターを操作しているコントローラーを握っている人物のことを指すこともあり、それらを区別すことがない。
然し一寸目を向けるだけで、それらを区別することができる。
我々は、同様に、一寸目を向ければ、この世界の「プレイヤー」と意識の「プレイヤー」とを区別することができる。
つまり、この世はゲームなのだ。
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というような感じで、議論の飛躍や専門用語の無駄な羅列や「ポストモダン」調の話し方というような、人を騙すテクニックをできるだけ頭悪い感じで色々使ってみました。
書いてて頭が痛くなるぜ。

因みに風邪っぽくてマジでフィジカルに頭は痛い。

そういや私の頭髪が抜け落ちてトランプみたいな髪型になっているという酷い夢を見た。
なので今年のエイプリルフールネタはトランプ絡みでと思っていたのだけれど、余り良いのが思いつかなかった。
トランプが大統領に選出されることが統計学的に確定している、とか。一寸やめて欲しいけど。