2014/08/17

オオカマキリ

今ふと思い出したここ数日の記憶。
アベリアの葉の陰にとても大きなオオカマキリを見て、「私も老いたもので、カマキリを見てもあんまテンション上がらなくなったなあ。寧ろ少し気持ち悪いという感覚もあるようだ。」と思ったことを記憶している。
でもよく考えてみると、今の時期オオカマキリは成虫ではないだろうし、記憶の中のオオカマキリはオオカマキリとしても大き過ぎる。
はっはーん。こいつは夢だな。こいつは夢の記憶だな。
最近・・・という程最近のことに限ったことでもないが、たまに現実の記憶に夢の記憶が混ざることがある。
今みたいにそれが夢の記憶であると自覚できればいいのだけれど、ちゃんと意識するまでそれが夢の記憶であるということが判らないと思うので、例えば誰かが夢に出てきたとして、その所為でその人に対する好感度とかが上下したりすると厄介だ。
例えば人に対する好感度ってのは、多くの場合、明確に意識化乃至正当化された理由があって好きとか嫌いとか言ってる訳じゃないからな。
そういう無意識的或は前意識的な判断の積み重ねが今の意識的な自分の人格の少なくとも一部を成しているということを思い返すと・・・まあ別に驚いたり嫌になったりすることでもないか。
多少の恐怖はないでもないが。
私は私自身が信用ならないものだと知っている。が、普段から信用しないで生活している訳ではない。ということを知っている。

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梅田で呑む。

生物学的には、染色体の話をするなら人間の性別は大体XXとXYとあと幾つかの染色体異常(種類は結構多かった筈)ぐらいかも知れないし、成人時の外面的特徴から区別するなら性染色体の可能な種類よりもう少し少ないぐらいで事足りるかも知れない。
が、もしジェンダーについて語るなら性別というものが片手で足りるぐらいの数しかないと考えるのは馬鹿げているように思われるし、男と女の二項対立を単純に基礎としてしまうのは非常に危険な香りがする。
人の数だけ性別を用意する必要は無いが、ものの見方によって性別の数が増減することを許すような、性的アイデンティティの個人における多層性や社会における多様性を認めるような議論がなければ、ジェンダー論は、まあ騙され易い人達を騙すことはできるだろうが、現実に存在する問題についてのまともな議論としてはすぐ壁にぶち当たるだろう。
少なくとも不勉強な人達がそれをフェミニズムの全体として捉えているような頭の悪いフェミニズムのように、単純に男性(的なもの)と女性(的なもの)とのたった二つを単純に並べてみて、前者から後者を守ったり或は後者の前者に対する優位を唱えたりする、というだけでは何一つうまくいかない。

というようなことを呑みながら考える。