歯が痛し。
虫歯か。
多分虫歯だ。
虫歯かー。
あー。
何年も前に虫歯の治療をして銀を被せたのだが、どうも被せ方が悪かったらしくずっと違和感があったのだけれど、そこがなんか虫歯っぽい痛さになってきた。
銀の下が虫歯になっている可能性が。
歯医者に行くか・・・。
家の周りに歯科医院が幾つかあるのだけれど、あれって結構当たり外れがあるやん?
近所に知り合いも居ないので、どこの評判が良いとか悪いとかも判らず。
ネットのクチコミもあんま宛にならないし・・・。
ここんとこ医者にかかる率が高いなあ。
歳か?
地味に財布にダメージを与えて来やがる。
2011/09/07
「あん」の話
何故か「まんまんちゃん、あん」の語源が気になって夜も眠れず。
関西地方の特有の語だそうで、私も関西出身&在住なもんで、昔はよく聞いた語だ。
然し最近はあんまり聞かなくなった気がする。
私の感覚では、「まんまんちゃん」は仏とか仏像とか(伝説級の、エラい系のホトケ)、特に墓とか仏壇とかに居るとされる死者(普通のホトケさん)のことを指している気がする。
以下私の感覚での話で、これが一般的に受け入れられるのかは判らない。
「まんまんちゃん」は恐らく浄土真宗の「南無阿弥陀仏」の転訛から来ているのだろう。
「南無阿弥陀仏」が「なんまんだぶ」or「なまんだぶ」に転訛し、更に「だぶ」が落ちて残りが「まんまん」と転訛して、同時に名詞化し、それに親しみを込めるときの敬称「ちゃん」が付加したものだろう。
因みに「ちゃん」「さん」は関西では名前だけでなく色々な名詞の後にもよく付けられる。
「あめちゃん」「天神さん」「お遍路さん」etc.
あとどうでもいいけど「さん」の用法やニュアンスは大阪と京都では似ているが違う。
「まんまんちゃん」は一見幼児語のように見えるが、大人の間でもホトケさんに対して愛着とか親しみを込めようとしたときにも使用されるっぽい。
然し最近は「まんまんちゃん」の語を用いる人は少ないので、この語を今日敢えて用いる場合は、単にホトケさんを指すというよりは、何か特別な重み付け(何らかの照れ隠しとかか?)が付け加えられているように思える。
「まんまんちゃんする」「まんまんちゃんしときやー(しときやー=しておきなさい、しておいたらどうですか)」というふうに動詞形にもなるが、「これは名詞の動詞形、或は表現の短縮形である」と認識されながら、或程度の違和感を以て使用されるように思える。
違和感の度合いは、「インターネットする」というよりは「パソコンする」ぐらいの感じ。
動詞化すると幼児語らしさが増す。
「まんまんちゃんする」というのはホトケさんに手を合わせて礼拝すること或はその一連の動作そのもののことを指していると思う。
「まんまんちゃんする」の、省略形でない形は「まんまんちゃんにあんする」。
用例:「まんまんちゃんに、あんしときーやー(しときーやー=しておきなさいよ、さもなくば・・・)。」
「あんする」が加わると、一気に幼児語っぽくなる。
「あんする」のは幼児だけが許されていて、大人が「あんする」のは奇妙に感じられる。
幼児は礼拝するとき、「まんまんちゃん、あん!(「あん」を強く)」と口に出して言いながら「あん」と言うタイミングで拍手(かしわで)を打つようにして、或はハガレンみたいな感じで、肘を突っ張りながら鼻の先で手を勢い良く打ち合わせるようにする。
この手を打ち合わせるとき、音を出してもいいが、音が出なくてもいい。
音を出すことに主眼が置かれてないように思えるので、神社で打つような拍手が混入したのとも恐らく違う。
「あんする」とは、この一連の礼拝動作を指しているようにも思える。
これは幼児だけがする礼拝の仕方で、大人がすると訝しがられる。
この「まんまんちゃん、あん」は、何か字義通りの意味を持っているような種類の語というよりは、何か呪文とか特別な挨拶のような、隠されたもの(オカルト)の響きを幾らか持っている。
この「あん」がイマイチ何なのか判らない。
手を打つ動作に何か関係している気がする。
あと「あん」は「まんまんちゃん」とセットでしか使われない言葉だ。
単に「あんしときー」と言われたときは、「まんまんちゃんに」が省略されているものとして捉えられる。
「あんする」は「あん」の動詞化だと思う。
先に「あん」の概念があり、それに名詞をサ変動詞化するときの「する」を付けたもの、という感じ。
「あんする」は「礼拝する」に翻訳可能だが、「あん」単体を「礼拝」と翻訳するのは、不可能ではないにせよ何か違和感がある。
「あん」は掛け声でもあるように思える。
が、単なる掛け声以上の意味は無いという訳でもなさそう。
「あん」がどこから来たのか判らない。
真言の「オンうんたらかんたらソワカ」的なものの冒頭が俗化したものか?「まんまん」が真宗的な「南無阿弥陀仏」だとしたのに?
然し何か真言を連想させないでもないし、巷間で色々な宗派が混ざることも特に珍しいことでも不思議なことでもない。
が、証拠は何も無いし、あんまししっくりくる説でもない。
あとそれから・・・。
・・・。
ノッてきたところでそろそろ寝たい。
のでこの話は明日に続・・・かない。
関西地方の特有の語だそうで、私も関西出身&在住なもんで、昔はよく聞いた語だ。
然し最近はあんまり聞かなくなった気がする。
私の感覚では、「まんまんちゃん」は仏とか仏像とか(伝説級の、エラい系のホトケ)、特に墓とか仏壇とかに居るとされる死者(普通のホトケさん)のことを指している気がする。
以下私の感覚での話で、これが一般的に受け入れられるのかは判らない。
「まんまんちゃん」は恐らく浄土真宗の「南無阿弥陀仏」の転訛から来ているのだろう。
「南無阿弥陀仏」が「なんまんだぶ」or「なまんだぶ」に転訛し、更に「だぶ」が落ちて残りが「まんまん」と転訛して、同時に名詞化し、それに親しみを込めるときの敬称「ちゃん」が付加したものだろう。
因みに「ちゃん」「さん」は関西では名前だけでなく色々な名詞の後にもよく付けられる。
「あめちゃん」「天神さん」「お遍路さん」etc.
あとどうでもいいけど「さん」の用法やニュアンスは大阪と京都では似ているが違う。
「まんまんちゃん」は一見幼児語のように見えるが、大人の間でもホトケさんに対して愛着とか親しみを込めようとしたときにも使用されるっぽい。
然し最近は「まんまんちゃん」の語を用いる人は少ないので、この語を今日敢えて用いる場合は、単にホトケさんを指すというよりは、何か特別な重み付け(何らかの照れ隠しとかか?)が付け加えられているように思える。
「まんまんちゃんする」「まんまんちゃんしときやー(しときやー=しておきなさい、しておいたらどうですか)」というふうに動詞形にもなるが、「これは名詞の動詞形、或は表現の短縮形である」と認識されながら、或程度の違和感を以て使用されるように思える。
違和感の度合いは、「インターネットする」というよりは「パソコンする」ぐらいの感じ。
動詞化すると幼児語らしさが増す。
「まんまんちゃんする」というのはホトケさんに手を合わせて礼拝すること或はその一連の動作そのもののことを指していると思う。
「まんまんちゃんする」の、省略形でない形は「まんまんちゃんにあんする」。
用例:「まんまんちゃんに、あんしときーやー(しときーやー=しておきなさいよ、さもなくば・・・)。」
「あんする」が加わると、一気に幼児語っぽくなる。
「あんする」のは幼児だけが許されていて、大人が「あんする」のは奇妙に感じられる。
幼児は礼拝するとき、「まんまんちゃん、あん!(「あん」を強く)」と口に出して言いながら「あん」と言うタイミングで拍手(かしわで)を打つようにして、或はハガレンみたいな感じで、肘を突っ張りながら鼻の先で手を勢い良く打ち合わせるようにする。
この手を打ち合わせるとき、音を出してもいいが、音が出なくてもいい。
音を出すことに主眼が置かれてないように思えるので、神社で打つような拍手が混入したのとも恐らく違う。
「あんする」とは、この一連の礼拝動作を指しているようにも思える。
これは幼児だけがする礼拝の仕方で、大人がすると訝しがられる。
この「まんまんちゃん、あん」は、何か字義通りの意味を持っているような種類の語というよりは、何か呪文とか特別な挨拶のような、隠されたもの(オカルト)の響きを幾らか持っている。
この「あん」がイマイチ何なのか判らない。
手を打つ動作に何か関係している気がする。
あと「あん」は「まんまんちゃん」とセットでしか使われない言葉だ。
単に「あんしときー」と言われたときは、「まんまんちゃんに」が省略されているものとして捉えられる。
「あんする」は「あん」の動詞化だと思う。
先に「あん」の概念があり、それに名詞をサ変動詞化するときの「する」を付けたもの、という感じ。
「あんする」は「礼拝する」に翻訳可能だが、「あん」単体を「礼拝」と翻訳するのは、不可能ではないにせよ何か違和感がある。
「あん」は掛け声でもあるように思える。
が、単なる掛け声以上の意味は無いという訳でもなさそう。
「あん」がどこから来たのか判らない。
真言の「オンうんたらかんたらソワカ」的なものの冒頭が俗化したものか?「まんまん」が真宗的な「南無阿弥陀仏」だとしたのに?
然し何か真言を連想させないでもないし、巷間で色々な宗派が混ざることも特に珍しいことでも不思議なことでもない。
が、証拠は何も無いし、あんまししっくりくる説でもない。
あとそれから・・・。
・・・。
ノッてきたところでそろそろ寝たい。
のでこの話は明日に続・・・かない。
2011/09/06
ベッド・ラッカ・サッカー
いい天気。
古い友人数人とサッカーの練習をしている。
私は下手なりに結構真面目にあーだこーだ考えながらやってるのだが、ふと見ると、どうも友人達の方は集中が切れているようだ。
それでも友人達はサッカーが上手いので、それなりにソツ無く熟してはいる。
少々疎外感と劣等感を覚えながら、時折「ここは真面目にやった方が面白いところ」的な空気をパスに軽く混ぜてみたりする。
パスが返って来ようとしている。
シュートで終わろう。
私は裏へ動き出す構え。
然しパスは私の背中側に逸れる。
「ぅおい」と言ったか思ったか、私は焦って腰を回転させ、脚を大きく開いて体の後ろ側へグッと伸ばす。
然し、クソ、届かない!
そこで意図せぬ方向の重力が認識される。
おわ、落ちる!
・・・と、ここで回転しながらベッドから落ち、序でにベッドサイドテーブルの脚で背中をシコタマ打って目覚める。
落ちてる最中に事態は把握できた。
余りに綺麗に回転して落ちたので、面白過ぎて暫く起き上がらずに背中に残るベッドサイドテーブルの余韻を楽しむ。
という夢の話。
まあ頭を打たなくてよかったか。
Amazonで予約した、EMIから出るCelibidacheのBox set x4。
合計50枚ぐらいで9500円ぐらいなんだけど、今までチマチマ集めてたのが馬鹿らしくなる程お安い。
EMIのは日本盤で一枚あたり2500円ぐらい、輸入盤でも安いときで2000円ぐらいしたと思うので、それを考えるとかなりお得な感じ。
なので、マジでこの値段で合ってるのか?と、何回もAmazonを見返してしまう。
あとダブるのが結構出そう。
古い友人数人とサッカーの練習をしている。
私は下手なりに結構真面目にあーだこーだ考えながらやってるのだが、ふと見ると、どうも友人達の方は集中が切れているようだ。
それでも友人達はサッカーが上手いので、それなりにソツ無く熟してはいる。
少々疎外感と劣等感を覚えながら、時折「ここは真面目にやった方が面白いところ」的な空気をパスに軽く混ぜてみたりする。
パスが返って来ようとしている。
シュートで終わろう。
私は裏へ動き出す構え。
然しパスは私の背中側に逸れる。
「ぅおい」と言ったか思ったか、私は焦って腰を回転させ、脚を大きく開いて体の後ろ側へグッと伸ばす。
然し、クソ、届かない!
そこで意図せぬ方向の重力が認識される。
おわ、落ちる!
・・・と、ここで回転しながらベッドから落ち、序でにベッドサイドテーブルの脚で背中をシコタマ打って目覚める。
落ちてる最中に事態は把握できた。
余りに綺麗に回転して落ちたので、面白過ぎて暫く起き上がらずに背中に残るベッドサイドテーブルの余韻を楽しむ。
という夢の話。
まあ頭を打たなくてよかったか。
Amazonで予約した、EMIから出るCelibidacheのBox set x4。
合計50枚ぐらいで9500円ぐらいなんだけど、今までチマチマ集めてたのが馬鹿らしくなる程お安い。
EMIのは日本盤で一枚あたり2500円ぐらい、輸入盤でも安いときで2000円ぐらいしたと思うので、それを考えるとかなりお得な感じ。
なので、マジでこの値段で合ってるのか?と、何回もAmazonを見返してしまう。
あとダブるのが結構出そう。
2011/09/04
2011/09/03
満額の伝説
牛ミンチがあったので、ハンバーグかオムレツでも作ろうと思いながらぼんやり料理をしたら、その中間のなんだかよく判らないものができあがる。
最低限、何を作るか決めてから料理を開始すべきだ。
まあ割と不味くなかったけど。
昔から語り継がれている伝説。
そういう伝説が、昔の人々にどのような仕方で捉えられていたのか、興味がある。
昔の人々にも当然合理性はあったし、現代人に比べて本質的に頭が悪かったなどと考えるべき理由も特には思い付かない。
然し昔の人の置かれた情報環境と現代人の置かれている情報環境は違うので、或は昔の人の情報環境下で育ったものごとの捉え方と現代の情報環境下で育ったものごとの捉え方とは幾らか質的に違うという可能性がある。
少なくとも現代人の思考の形態とか合理性とかをそのまま全く変えずに昔の人に当て嵌めて考えるべきだとも思えない。
現代人と昔の人との間に幾らかの差異はあるだろうし、同じ伝説でも捉え方は恐らく或程度は違っていただろう。
それがどういう風に違っていてどういう風に同じだったのかについて想像するのは楽しい。
昔の人は伝説をいつも馬鹿正直に満額で信じていると我々は想像しがちだと思うんだけど、ホントにそんな感じで信じてたのだろうか。
私はそうは思わない。
多くの場合、満額よりは幾らか差し引かれていたように思える。
昔の人のものの捉え方をよく想像されがちなのよりも現代人のに引きつけて想像してみると、楽しい。
例えば日本神話とか、どのくらいマジな態度で捉えられていたのか。
慥か古語拾遺(平安時代の始めの方)か何かに「神代の話とか普通に考えたら俄には信じ難い」という感じの一節があったような気がする。
勿論その後に「が、神々は信じられないようなことをやってのける(そこにシビれる憧れるゥ!)、ということがその神性を表している」という、なんの説明にもなってない言葉が継がれるのだけれど、これは権威に対する反逆の意志の無いことを証だてようとする無意識的な姿勢の表れとも捉えられないでもない。
まあ兎も角、信じなければならないとされていたり疑問を持ってはいけないとされていることなので、心底信じているかのような態度を習慣的に採っていて、それに因って全体論的網の目の幾つかの不整合から目を逸らすことに慣れ切ってしまっているかも知れない。
そうしとくと波風立たないし。
今で言うところの性犯罪周りのこととか原発周りのこととかかね。
死を以て償うとか言うけど、この21世紀の世で、なんで死ぬことで償ったことに繋がるのか、とかか。
如何にして遺族の感情で刑の多寡が変動すべきと考えることができるのか、どういった理由で感情への配慮が遺族のものに限られているのか、とか。
然し兎も角、日本神話の話とか、少なくとも普通に考えた場合にはあり得ないということが判るぐらいの判断力は、昔の人にもある訳だ。
このことは、伝説を満額で信じていた訳ではないと考えることに、多少の尤もらしさを与える。
然し満額からどのくらい差し引かれていたのかは妄想する余地がある。
このことからもっと拡げて、昔の人は現代人と割と似たような形の思考の形態を持っていたと考えて、そういった視点で昔の本とか読むと、楽しい。
新聞は取ってないのだが、新聞社の名前を冠したネットニュースは見たりする。
今はもう新聞の記者の間では、安易なレトリックを廃して事をできるだけ正確に伝えようという努力は、全てまるっきり諦められてしまっているのかね。
タブロイドと差異化することは、もうされてないのかね。
最低限、何を作るか決めてから料理を開始すべきだ。
まあ割と不味くなかったけど。
昔から語り継がれている伝説。
そういう伝説が、昔の人々にどのような仕方で捉えられていたのか、興味がある。
昔の人々にも当然合理性はあったし、現代人に比べて本質的に頭が悪かったなどと考えるべき理由も特には思い付かない。
然し昔の人の置かれた情報環境と現代人の置かれている情報環境は違うので、或は昔の人の情報環境下で育ったものごとの捉え方と現代の情報環境下で育ったものごとの捉え方とは幾らか質的に違うという可能性がある。
少なくとも現代人の思考の形態とか合理性とかをそのまま全く変えずに昔の人に当て嵌めて考えるべきだとも思えない。
現代人と昔の人との間に幾らかの差異はあるだろうし、同じ伝説でも捉え方は恐らく或程度は違っていただろう。
それがどういう風に違っていてどういう風に同じだったのかについて想像するのは楽しい。
昔の人は伝説をいつも馬鹿正直に満額で信じていると我々は想像しがちだと思うんだけど、ホントにそんな感じで信じてたのだろうか。
私はそうは思わない。
多くの場合、満額よりは幾らか差し引かれていたように思える。
昔の人のものの捉え方をよく想像されがちなのよりも現代人のに引きつけて想像してみると、楽しい。
例えば日本神話とか、どのくらいマジな態度で捉えられていたのか。
慥か古語拾遺(平安時代の始めの方)か何かに「神代の話とか普通に考えたら俄には信じ難い」という感じの一節があったような気がする。
勿論その後に「が、神々は信じられないようなことをやってのける(そこにシビれる憧れるゥ!)、ということがその神性を表している」という、なんの説明にもなってない言葉が継がれるのだけれど、これは権威に対する反逆の意志の無いことを証だてようとする無意識的な姿勢の表れとも捉えられないでもない。
まあ兎も角、信じなければならないとされていたり疑問を持ってはいけないとされていることなので、心底信じているかのような態度を習慣的に採っていて、それに因って全体論的網の目の幾つかの不整合から目を逸らすことに慣れ切ってしまっているかも知れない。
そうしとくと波風立たないし。
今で言うところの性犯罪周りのこととか原発周りのこととかかね。
死を以て償うとか言うけど、この21世紀の世で、なんで死ぬことで償ったことに繋がるのか、とかか。
如何にして遺族の感情で刑の多寡が変動すべきと考えることができるのか、どういった理由で感情への配慮が遺族のものに限られているのか、とか。
然し兎も角、日本神話の話とか、少なくとも普通に考えた場合にはあり得ないということが判るぐらいの判断力は、昔の人にもある訳だ。
このことは、伝説を満額で信じていた訳ではないと考えることに、多少の尤もらしさを与える。
然し満額からどのくらい差し引かれていたのかは妄想する余地がある。
このことからもっと拡げて、昔の人は現代人と割と似たような形の思考の形態を持っていたと考えて、そういった視点で昔の本とか読むと、楽しい。
新聞は取ってないのだが、新聞社の名前を冠したネットニュースは見たりする。
今はもう新聞の記者の間では、安易なレトリックを廃して事をできるだけ正確に伝えようという努力は、全てまるっきり諦められてしまっているのかね。
タブロイドと差異化することは、もうされてないのかね。
2011/09/02
テイラー
テイラーのSource of the Selfの翻訳がいつの間にか出とる!
出版日は丁度一年前か!
でも一万円近くして買えたもんじゃない。
しょうがないのでオリジナルを読むか・・・。
一応オリジナルは持ってるのです。
殆ど読めてないけど。
英語やし・・・。
英語ぐらい読めるようにならんかね。
努力しろ?
そりゃそうだ。
英語でも読めたら生活も少しは面白おかしくなるんだろうけどな・・・。
つまらないですか。
つまらないです。
生まれてこの方、ずっと余生を送っているようだ。
ああそうか、一年前といえば、マイケルサンデルが流行ってたのか。
ならテイラーの主著の翻訳が出るタイミングしては、ここしか無い感じか。
でも高いなあ。
サンデルが流行ったおかげで、例えば民主主義と多数決の区別すら付いてないような昔ながらの与太を聞かされる機会は、少しは減ったのかね?
出版日は丁度一年前か!
でも一万円近くして買えたもんじゃない。
しょうがないのでオリジナルを読むか・・・。
一応オリジナルは持ってるのです。
殆ど読めてないけど。
英語やし・・・。
英語ぐらい読めるようにならんかね。
努力しろ?
そりゃそうだ。
英語でも読めたら生活も少しは面白おかしくなるんだろうけどな・・・。
つまらないですか。
つまらないです。
生まれてこの方、ずっと余生を送っているようだ。
ああそうか、一年前といえば、マイケルサンデルが流行ってたのか。
ならテイラーの主著の翻訳が出るタイミングしては、ここしか無い感じか。
でも高いなあ。
サンデルが流行ったおかげで、例えば民主主義と多数決の区別すら付いてないような昔ながらの与太を聞かされる機会は、少しは減ったのかね?
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