2021/07/29

紙の本を読もうキャンペーン

最近トンと本を読まない。
電車の中で Kindle Ultimate の実話怪談本を読む程度。

因みに私は怪談好きではあるが、所謂オカルト的なモノとか超常的なモノがそれ自身として実在しているとは全く思っていない。
然し或状況についての或人の率直な記述が怪談として成立するような性質を持つということの、その背景や過程には興味がある。
単に作り話や枯尾花ってことも当然あるんだろうけれども、それだけじゃなくて、大きく言えば社会的状況や語彙が記述方式を方向付けてるんじゃないかとか、或はもしかしたら例えば同じものを見ていても、或一定の磁場やら或種類の黴の胞子やらの物理的な何かが或感受性を持った人間や或状況下にある人間にはそこそこ再現性のある形で、然し他の多くの人と違った形で記述される傾向がある、みたいなことがあるんじゃないかとか。
或はギターを掻き鳴らした音が楽器経験者にはAmコードに聞こえても楽器を弾かない人には只のギターの音にしか聞こえないような感じだったり、同じ和音でもジャズ畑の人が記述するコード名とクラシック畑の人が記述するコード名が違ったりとか、そういう或一定の社会の中で強化/教化された感性みたいなのが影響してるんじゃないかとか。
なんかそんなことが色々想像できて面白い。
私はそれを勝手に民俗学的興味と呼んでいるのだけれども。
なのでどちらかというと、「視える」人の語る怪談や人を怖がらせようとしている怪談は、まあ嫌いではないけれども、特に面白いと思うことは少ない。
特に私は恐怖心が壊れてしまったのか、映画でもジェイソン的な何かがゥワっと出て来ればビクッとはするだろうけれど、怪談で怖いと感じることはもうないようなので、只「怖い」怪談は私には面白くない。
「幽霊なんか信じていないけど一度だけなんか奇妙な体験をしたことがある」とか、遠野物語的に「こんな奇妙な言い伝えがあるんだけれど」みたいなのが美味しい。

あと実話怪談本は、大抵1冊に何十話か入っているので1話1話が短くて、電車で読むには丁度良い。

因みに便所にはトランジスタ技術(雑誌)と、ガチのオカルト学本が常備されている。
ガチのオカルト学を学ぶのは、一つには、民俗学興味から。
あと「オカルトを信じない」と言うにも、信じないモノの範囲を自分で或程度コントロールできるようになる為には、その信じないものについての知識も幾らかは必要なので。
「ダーウィン的進化論も現代貨幣理論もイェツィラーも概念枠もフロイト的精神分析もフライングスパゲッティモンスターも科学的価値は等価」とか誰かが言ったときに、ちゃんとイチイチツッコめるようになる為。

まあサテ置き。
本を読まなくなったという話。
良くないわなぁ。
特に紙の本は全然読んでない感じがする。
元々、私はそんなには本を読まない。
家にはそこそこの量の蔵書があるが、買ったものの殆ど手を付けていない本もかなりある・・・。
私には一人だけ、師匠と呼ぶ人が居るのだけれども、何年か前に出たその師匠の本も、開けば色々と考えてしまって一向に進まないので、私の頭の調子の良いときに読もうと思って、然し私の頭の調子の良いときなんてそんなものは存在しないので、結局ずっと机の上の手の届く場所に放ったらかしになっている。
非常に良くない。

ということで、紙の本を読もうキャンペーン。
蔵書を消化していきたい。
あとなんか本を読まなくなると、私は普段から基本的に何も考えていないので、私の頭が悪くなっていくスピードが増すような気分になる。
芥川龍之介ならトックの昔に自殺している唯ぼんやりした不安よ。
私は元々からして頭の方がよろしくないので自殺せずに済んでいるだけよ。

で、まあリハビリは必要かなと。
なんとなしに、リハビリには探偵小説とか怪奇小説なんかが良さそうに思える。

Amazonを開くと三津田信三の新刊がオススメリストに表示されていた。
興味深いけれども、でも三津田信三は分厚いからなあ・・・過負荷なリハビリになりそう。
と思って書架を眺めていると大分昔に買った三津田信三の短編集の「赫眼」が目に付いたので、取って読むことにした。
なんか痒い所を掻いてくれない感じの表紙が気に入っているんよね。
一度読んだ筈なんだけれども、内容は結構忘れている。
割と「怖い」部類の作品なので、怪談的恐怖心が腐って了っている私にはどうかと思ったのだけれども、今のところ結構楽しむことができている。