2016/07/10

政治的中立

参院選やし。

自民党が「学校教育における政治的中立性の調査」ってのをやってる。
https://ssl.jimin.jp/m/school_education_survey2016/
なんか内容が変わってるみたいだから魚拓をとっておこう。
ここから-----
党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。
(以下個人情報入力/投稿フォーム)
-----ここまで
投稿するには住所や職業等のかなりの個人情報を入力する必要があるのがなんかすげー不安になる・・・。
プライバシーポリシー:
https://www.jimin.jp/privacy_policy/
不安になる・・・。

恐らくは実際の投稿を期待しているのではなく、「キョウシどもって左(つまり反自民)に偏ってるよな。あいつらの言うこと真に受けんなよ。あと左キョウシはウザい黙れ。」という内容を右だの左だのという(頭悪そうな)言葉を使わないで書かれた声明だと思われる。
それでもまだ無駄に曖昧な用語を多用していて十分に頭悪そうな文章だけれど。
反自民の勢力を削ぐには先ず言論への圧力からというお馴染みの手法の一環なのだが、自民党はここまでやって許されると思っているのだな・・・。
そしてこのプアーな日本人どもは、自民党が今までにもやってきた、そしてここ数年激しさを増している民主主義への攻撃を、いとも簡単に忘れるんだろうな。

民主主義への道のりはなんて遠いんだ・・・。

政治に中立など存在しないし、総ゆる表現や行為は政治的であり、イデオロギーを含んでいるか或はイデオロギーそのものである。
そもそも中立な政治的立場というものが実際に具体的にどういうものなのか、正しく想像できる人間は存在しない。
或は立場の「偏り」は相対的なものでしかなく、教科書を読み上げるという行為ですら立場に拠って「偏る」のだ。(因みに教科書というのは究極に政治的産物である)
序でに「偏り」は単なる左右の1次元的なものではなく、もっと複雑な政治的言論空間における相対的な差異の存在の余り的を射ていない仕方での言い換えである。
私は自分で「最左翼の更に左側」となんとなく自称しているが、左派と言われる人の多くは私を大雑把に見て自分より「右」だと言うかも知れない。
政治的左右なんて実質的には大した意味は無いし、少なくともこの文脈で「偏り」について語るのは時間の無駄だ。

通常、「偏向」を批難するのは、それが自分が反対している立場であるという理由で批難するのだ。
他の人が自分の反対する立場について考えたり或はそれを受け入れるかも知れないということが厭だと言って批難するのだ。
自民党にとっての「偏向」とは、例えば「日に5回靖国神社の方向に祈りを捧げましょう」という立場を表明することではないし、或は例えば「日本の素晴らしいなんかの技術」やら何やらを手放しで褒め称えるTV番組を放送することでもない。
何故なら自民党にとって、コミットしないにしてもそれが今特に反対しなければならない立場でもないからだ。

政治的中立という頭の悪そうなファンタジーを現実から区別できていないということをこんなに明ら様な形で臆面も無く表明できるということが、私にはショックだった。

教育が不偏不党であるべきとかマジで言ってんのかこいつら。
まあ要するに、今回の中立性の調査とやらで、教員への圧力の為にまたわざわざ自らが愚かであることを世に知らしめている訳だ。
これが例えば先ずパブリックコメントを求めるとかじゃなくて、自民党ホームページ上で急造臭い投稿フォームで個人情報てんこ盛り(FAXまで要入力)にしないと投稿できないようになっていたりするのは、これで教員が少しでも萎縮してくれるといいぐらいの感じなんじゃないですかね?
そうすると今回の選挙で改憲勢力2/3議席確保できると踏んで、一気に改憲まで走りそうなシナリオが想像できて怖い。


或一つの(或は「一つ」であるように認識可能な範囲の)政治的議題に関して二人の単純に正反対に対立する立場の人がいたとして、その二人とは関係の薄い三人目が仲裁を買って出たとしよう。
この三人目が中立であると言えたとして、それはどういう意味において中立なのか?
例えばこの三人目が仲裁役を買って出たということから、その三人目が政治的に中立であるということが論理的に導き得ない。
或は対立する二つの意見を知って尚無関心を装うことや特にこれといった行動を起こさないことは、政治的に中立な振る舞いでは全くない。
つうか正反対の二つの立場の中立ってどこよ?
二つをなんか直線で繋いでその真ん中か?このときの直線て何よ?真ん中って何よ?
或はどちらにも与しないということが中立ということの意味なのか?それは政治の文脈では単に新たなもう一つの立場でしかないのではないのか?
たった一つの政治的議題についての、たった二つの立場についてですら、我々は中立ではあり得ない。
実際の政治的議題は、普通もっと沢山の他の政治的議題と絡まり合っているし、それに対する立場は殆ど無限に存在し得る。
人は普通、右と左だけの1次元上の点として表現するには複雑過ぎる。

「政治的中立」というのはなんとなく便利そうな言葉ではあるが、実体は無い。
そして、重要なのは、或人物が中立でないということが他の誰かの思考の多面性を失わせることは無い、つまり問題は中立性じゃないのだ。


で。
授業中、教員が、例えば改憲について、自分の政治的立場を表明したとしよう。
改憲マジイカス、戦争とか起こらんから大丈夫大丈夫、とかなんとか。
で、その後すぐ改憲の可否について模擬投票したら、まあ改憲賛成へバイアスがかかるであろうということは想像できる。
例えば1000クラスぐらいを使ってランダムな1/3のクラスでは教員の立場を表明せず模擬投票をし1/3は賛成の立場を、もう1/3は反対の立場を表明してから模擬投票をしてみたとしよう。
私の想像では、統計的には教員の立場の方へ引っ張られると思う。
賛成と反対ではどちらに強く引っ張られるかはチョット判らないけれど。
つうか二重盲検っぽくなってないのでガチでやるならもっとやり方を考えないといけないけれど。

こう想像するのは、一つには、教員という目の前の権威の政治的立場が、その権威が出した「問題」としては「正解」であると単純に信じる生徒はいないでもないだろうからだ。
或はその「正解」が多数でなければ後々面倒臭いことになる(教員が不機嫌になったりセッキョウが始まったり)ことを想像する生徒も少なくはないだろう。
大体小学生ぐらいからそのくらいの空気は読めるようになる。
開票は教員の目の前で行われるか或は少なくとも学校の中を出ないところで行われるのだから、権威に対して異を唱えるにはそれなりに強い理由や動機が要る。
反発する人数より空気を読む人数の方が多いという想像が私にはシックリ来る。

それで生徒達が18になって本当の選挙になったときに、生徒達は学校から離れた場所で単純に模擬投票の投票用紙に書いたことと同じことを書くのか?
もっと何か普通の大人程度には考えて行動し、その責任を取ることができると考えられたから18歳19歳に選挙権を与えることに賛成したのではないのか?(これは皮肉を言っているのだ。)


つうか「特定のイデオロギーに染まった結論」とか言ってるけど、何らかの結論が出たとして、その結論はそもそも当に何らかのイデオロギーの投影ではないのか?
或は自分達が何のイデオロギーにも染まってないとでも思っているのか?


私の小中学生の頃、「不良」全盛期の少し後で、多くの教員達は生徒に対して権威主義的に振る舞い、横柄で暴力的で誤りを認めず、私は糞食らえと思っていた。
序でにイマイチ社会について理解していない連中が「社会に出たら云々」とか吐かしていたり、言うことは一貫性に欠け矛盾していて、こいつらもマジで馬鹿なんだなと思って見下していた。
それが矛盾や不条理であることを生徒が理解しているということを理解する必要が無いと考えているように見えた。
高校ぐらいに行けばちゃんとした人も居たけれど、相変わらず権威主義者も居て辟易させられた・・・。
然しそれらの教員から取り除くべき権威主義とは、彼ら彼女らが生徒に対して反自民(偏向)を表明したりそのように振る舞うことではない。
或は「公明党カーズさん(in the space)みたいでちょーイカス、ブレーキ役どころか座ってるだけのちょーアクセル、安保とか議論は尽くされてないのは認めるけど強行採決しちゃえば問題ないよね、自民党がそう言ってる」とかでもない。
例えば十分な理由や正当性も無く生徒の意に反して理不尽に何かを強制することが許されるという考えを現代の教員達も持っているのなら、或はそれが自民党であれ会社経営者であれ誰であれ、勿論取り除かなければならない。