2016/05/08

多元論の次

私的言語メモ。

例えば私が「腹が痛い」と言ったとしよう。
この一連の状況について、現在の神経生理学が扱うことを許されているような語彙を用いて記述し直すことはできるだろう。(或は未来の神経生理学に予期される語彙も含めてもいい。)
まあ要するに、心に関するアレコレ(民間心理学)を科学的に扱うことはできるのか、という質問に対して「全くできない」と答える人はまあ居ないだろう、という話。
消去的唯物論者は「そんなん物理学がカンペキになったときには完全に可能だし、それが叶った暁には民間心理学は正確じゃないので捨てていい」と言う。
乱暴に言うなら、「世界」とは物理法則に支配される物理世界であって、人の心もまあその一部であるか、或は物理学的記述ができない事柄が残るとすれば、それはそもそも存在していないのだ、っちゅう話。
これに対してプラグマチストは「まあでもゆうたかて、「正しい」とか「間違ってる」とかいうのは言葉ですやん?(言語的)実践を超えてなんか「世界そのもの」的なヤツにアクセスとかできたりとか、ソイツをそのまま(言語的)実践抜きで判断とかできたりする訳やないですやん?」と言う。
他にもポパーふうに「そもそも物理学がマトモな科学である限り、カンペキとか無いし(反証可能性)」とか消去的唯物論に対しては色々攻め方があると思うけど。
「いくらなんでも消去はやり過ぎちゃう?」ということは言えそう。
で、実際のところ、心はモノなのか?
プラグマチスト的には、問題にしたい点は、我々が今民間心理学的語彙を以て記述しようとしている事柄は物理的な事象「でしかない」のかというところか。
プラグマチックなユルい実在論者は「やっぱゆうてもモノでっせ。物理的実在のみが世界に実在しとるんでっせ。」という点を強調する。
それに対してプラグマチックな多元論者は「いやちゃうねん、そもそも物理学的言説だけが特権的に真偽判断が可能というもんでもないで。色々あんねやて。物理学も人が生活していく上での「色々」の内の一つやで。」と言う。
多元論者的には、歴史的に見るなら民間心理学の語彙と物理学の語彙は元々別モンで、それらの間で翻訳は可能だけれど翻訳の不確定性は残るという点は強調したいトコロ。
心を昔ながらの民間心理学的存在と見てもいいし、物理的存在と見てもいいし、或は道徳的存在と見てもいいけど、どう見たらいいのかはその時々の目的とか場合とかに拠る、ぐらいの感じ。
なので民間心理学と物理学と道徳とで戦ったらどれが強いのか、という問いには直接的には答えず、「イヤだからそもそもそれらは別モンで、常に一律になんか神の視点的な視点から比較できるというものでもないし。時と場合に拠るんちゃう?」と言う。
これだけだと相対主義みたいに聞こえるかも知れないけれど、相対主義と違って原理的に何も判断できないという状態からは「目ぇ瞑って飛び降りろ」的実存主義なんかをわざわざ導入しなくても抜け出せる。
例えば「社会」だとか「歴史」だとかの他者の概念の話が加わったり・・・けど今その話はいいや。相対主義嫌いだし、この長くなるので面倒臭いし。

まあそんな訳で、私はプラグマチックな多元主義者なんだが、ここからが問題。
多元論とはいっても、言語実践の仕組み的に強いヤツっておるやん?
例えば論理とか合理性にどのくらいパワーを持たしていいのか。
実は心身問題が問題なのではなかったのでした。
アリストテレスは哺乳類であるなら、それはアリストテレスが脊椎動物であるということを含意していると言ってもいい。
全ての哺乳類は脊椎動物であるからだ。(え?合ってるよな?カモノハシ的例外とか無いよな?)
・・・と言うとき、何が起こっているのかとか。