2008/05/26

ワックスかける、ワックスとる

どうも髪を洗っても整髪料が完全には落ちてない気がする。
髪に指を通す度に、指の間に薄く蝋を塗ったようになる。
或はワックスをかけたような。
ここのところずっとだ。
髪もパサパサしてるし。
もっと強力な洗髪料が要るのか。
でもなんか最近ガッツリ系の洗髪料って余り売ってないような気がする・・・。

2008/05/24

限界

もう限界だと、ずっと言い続けている。
そしてまただ!

CDを買ってしまった。
もう入らない!
もう入らないだろう。

売ろうかな。
冒頭の30秒だけ聴いて、駄目だと解って、そこからずっとお蔵入りしてるのとか結構あるしな・・・。

2008/05/23

腹痛

特に無し。
腹が痛いのだが、シコタマ喰った所為か、或はちょっくら腹の辺りを鍛えた所為か、判らない。


宝くじを買わずに宝くじに当たる何か良い方法はないかなあ。
でも10枚買えば・・・一等一億ぐらいとして・・・最大10億ぐらいか。
まあ10億もあればおもしろおかしく生きていけそうだ・・・。
古い家を買おう。
「独りで住むには大き過ぎる」とか言いながら、独りで茶を啜りながら住むのだ。
それでも9億9000万程余る!
ああ!どうしよう!

2008/05/22

18%

なんか六月ぐらいになると色々と魅力的な新商品が出そうで恐ろしい。
ATOMが出たら低価格PCとか買ってしまいそうだし、iPhonも出そうでやばい。
そろそろメインマシンも替えたい気もしなくもないし。
煩悩にまみれてるぜ!
買えないけど。

やっぱ宝くじか・・・。
10枚3000円もするのか・・・。


そういや政府が基礎年金を税金で賄うとしたら消費税が何%になるのかの試算をやってみたそうだが、その試算によると、年金を一律支給して更に既に年金を納付した実績のあるひとはそれに応じて幾らか増額する、という場合で消費税が18%ぐらいになるそうだ。
多くて18%。
まあどういう計算をしてるのか、私は詳細を見てないので判らないのだが、私は「18%でいいのか」という感想を持った。
適当に新聞など眺めてる感じでは、消費税率の増率に因る個人消費の減少或は経済全体の停滞分とか計算に入れてないような気がする・・・。
どっかに「消費税率1%につきナン兆円で計算すると」的なことが書いてあった気がする。
奇妙な競争原理に自ら身を置いてテンポラリーな人気取りに必死なマスメディアでは、消費税が多少上がることにも殆ど「そんなん払えるかー」とか「国民の理解が得られるだろうか(反語)」的な意見しか報道されていないが、私は18%という数字を「思ったより安い」と感じたのだが。
今の日本のマスメディアが「国民の理解」とかいう言葉を使うとアンニュイな気分になる。
消費税の増税は所得税等の累進っぷりをもっと増やすことの次ぐらいに良い案だと思うのだが。
取り敢えず既に十分持っていてる或はこれからのアテもある御方はいざ知らず、今から積み立てていった分を大分後からもらわないと不可ない我々富裕層でない若人にとっては、社会保険やら年金ってのは死ぬ程大事なものなのだ。
貧しければ貧しい程。
エラい人にはそれが解らんのです。
特にその人が既に十分持っていて、それを更に増やすことに躍起になっているときには。

序でに消費税率を上げるときは、所得の低い老人により多く分配する仕組みを考えるといい。

あと税の収支がもう一寸クリアになると更によろしい。
これが最も重要か。

色々思うところはあるが、もう眠い・・・。
いつもの言いっ放しで。

2008/05/20

チェリビダッケのベートーヴェン

ヴァイオリンの弦を換える。
ナイロンからスティールへ。
クロムコア?って読むのか?
やっぱサイレントヴァイオリンにはスティール弦の方が合う。


チェリビダッケのベートーヴェンは、腰が重過ぎて私は今まで余り好きではなかったんだが、ちゃんと聴き返すと、ありゃかなりヤバイものだ。

私は前からベートーヴェンの交響曲に関しては、フツーなのがイチバンだと思っていて、メータとかの昔ながらの解り易いロマン派な感じのが好きだったんだけど。
まあ実際にはフツーというのは、私が「普通の人」を殆ど見たことがないように、なかなか希少なのだが。
「普通の人」或は「普通の演奏」という概念を我々は簡単に持つことができるが、実際に「普通の」人だとか「普通の」演奏を探すのは難しいものだ。
それを高いレベルでキッチリやってのけられるメータなんかはもっと評価されてもいいと思うんだけど・・・。

それはまあ、兎も角として、チェリビダッケの。

非常に音響的で、且つ全ての楽器が明確な意図を持っているのが解るように響く。
例えば第九の第四楽章のソリストのフーガ風のとこの二番目のとこ。
全ての音が調和していて、これは他では一寸聴けないだろう。
かなりきっちり細部にわたって統制されている。
それから私はいつもこの部分の最後の方のフォルテで、(譜面上は四声ともフォルテになっているのに)大抵テノールだけがいきなり飛び出してきて不自然に感じていた部分があるのだが、この部分もちゃんと音響的に統制されていて、私はチェリビダッケのを聴いてやっとこの部分が本当はどうなってるのかということを経験的に理解することができた。

休符が緩くてスピード感に欠けていて重いし、音が冷静で醒めてるし、実際にテンポもかなり遅く、ブルックナーならそれで完璧なんだけど、だからといってベートーヴェンでも同じようにしなくても、というぐらいに思っていたのだけど、今日ちゃんと聴き返して脳味噌と鼻の奥辺りをエグられて、これは一つの正しい在り方なんだと、考えを変えた。

2008/05/19

エンチャンター

現代において、どストレートな意味で「私、魔法使いです」とか「私、奇跡を起こせます」とか言うことは、なんだか奇妙だ。
魔法やら奇跡やらが普通に考えて真面目に扱われるようなものではない、ということがその一つの理由ではあるのだが、何か他にもやもやしたものがあるような気がする。
というのは、魔法使いを自称する人は、魔法使いを自認してるぐらいなんだから、どのようにしてその「魔法」の現象が発生するのかも知ってるんじゃないかと。
言い換えると、どのようにしてその「魔法」現象が発生するかも知らなければ、その自称魔法使いはその現象の原因を自分に帰すことはできないんじゃないかと。
例えば「私が念じればこの鉛筆が空中に浮く。なんでだか能く解んねーんだけど。」という場合、この人は自分を魔法使いだと思うだろうか。
或は、こう言ってる人について、我々は普通、「この人は自分を「魔法使い」だと考えるだろう」と考えるだろうか。
なんか、現代における「魔法」という言葉は、一面的には、「魔法」現象とその原因との間に因果関係があることを認めなければ「魔法」とは呼べない気がするし、「魔法使い」は、その因果関係がどういったものなのか知っていなければならない、という気がする。
で、若しここまでのことが正しいとして、自称魔法使いが自らの意志で或「魔法」現象を発生させ、そしてそのときこの自称魔法使いはどのようにしてその「魔法」現象が発生したのか、自分の意志或は行為とその「魔法」現象との因果関係がどういったものなのかを知っているとすれば、この自称魔法使いは、現代において、それを本当に「魔法」だと考えるだろうか。
つまり、或ことと在ることとの間の因果関係がどういったものなのかを知っていることを「それは魔法だ」と考えることは、「魔法」という言葉の現代における使用法に反するのではないだろうか・・・。

ということを、今思い付いた。
なんか上手く説明できない・・・。


そういや昨日、京都で、ミャンマーのハリケーンと中国の地震とに対する義援金を募ってたのだが、その金は、ミャンマーについては、どうやって使うつもりなんだろう?

2008/05/18

永井豪

京都に用があり、京阪に乗って出かけて行って、昼間っからワインを呑み、シコタマ腹にものを詰め込み、酒気を吐きながら三十三間堂で凄い数の千手観音像が並んでるのを観て、ハクセンコウを買って、只管歩いて二条辺りまで北上し、香を仕入れて、阪急で帰る。
もう一寸うろついてもよかったが、ワインがどうも不可なかった。
すげー数の千手観音は、もう一度、人の少ないときに行って観てもいいなあ。
何故か永井豪を思い出した。