2011/12/04

正確かつ平易に語ること

哲学みたいに「コムツカシい」と(拒絶を伴って)言われるような事柄について、正確さだとか応用性だとかを犠牲にすること無く、その複雑さを保ったまま、例えばカントの名前も初めて聞くぐらいのれっきとした門外漢にもそれなりの理解度で理解できるように語るようなことは、恐らくは不可能ではないだろうが結構難しいことなんだろうとは思う。
つまりスティーブン・ジェイ・グールドが進化論についてやったようなことを哲学についてする訳だ。
そういうのに憧れないでもない。
例えばマイケル・サンデルなんかはこの点でいい線いってるように見えるが、まあ私は駄目だろう。
私がそもそも哲学の諸問題について何かまともに理解しているかというとそんなことはないしな!
然しせめて自分の理解している程度のことはもっと平易にスラスラ語れんもんかと思う。

てことで、その不透明さ故に読む者の心を暗くすることでお馴染みの言いっ放し私的言語メモ。
言語と思想とを端的な仕方で同一視するのは多分間違っている。
「記述として表れた思想」という言い回しは正当なもののように思える。
これは言語と思想とを或意味で同一視しているように見える。
「頭の中で独白される思想」でも大体同じことが言える。
然し恐らくはそれに加えて「無意識の海を漂っている思想」というような言い回しも正当であるように思える。
これは非言語的な思想の存在を認めているように見える。

「思想」という語の使用のされ方のバリエーションに注意を向けるなら、それは言語と思想との関係をどこかに閉じ込めて固定化しなければならないという昔ながらの強迫観念から逃れる手助けになりそうだ。
色々な種類の「思想」があんじゃね?
何か一つの仕方で存在している「思想」だけが在る、という訳じゃない。
なので無理に普通の言語以外に特別な「心的言語」を導入してドツボに嵌ったり、「直接的な」報告言語をその他の「直接的でない」言語からわざわざ区別したりする必要も無い。