2017/03/27

言語学的鼻毛論

鼻毛が痒い。

私がそう言ったとして、君は特に深く考えるでもなく私について何かを理解するであろう。

例えば、詳しく表現するなら「私は私の鼻毛が伸び過ぎて鼻腔に擦れて、それが痒いと感じている」というような状況に私が置かれていて、そして「鼻毛が痒い」と口に出したのだと、君は理解するとしよう。
或は今年の花粉は例年より少し多めらしいので、それでビオフェルミンと難消化性デキストリン&イヌリンとオリゴ糖に因って花粉症を或程度克服した私でも鼻腔が少し敏感になっているのでは、という推理も付け加わるかも知れない。
その理解はホントウに正しいかどうかは兎も角(私が単にトチ狂ったことを言っている可能性もあるので)、恐らくは正当で妥当なものだ。
然し「鼻毛が痒い」は「(私は私の)鼻毛が(伸び過ぎて鼻腔に擦れて、それが)痒い(と感じている)」を省略形にしたものでは恐らくないし、君は、或は少し考えた結果そう思い至るかも知れないが、特に意識的に考えることをするまではこれが何かの省略形だとは捉えなかったのではないだろうか。
私は「鼻毛が痒い」と言ったのだ。
そして君は特にその言語構造に思いを馳せるでもなく私について或一定の理解、或は無視でる程度とは言えない程度に有用な理解を成し遂げたのだ。
文を不寛容さを以て捉えるなら、鼻毛に主体性は無いだとか鼻毛に神経は通っていないだとか言って、拠って「現フランス国王は禿頭である」と同じように「鼻毛が痒い」という文がナンセンスであると主張することができるかも知れないが、それは普通の言語感覚からすれば受け入れ難い主張だろう。
但、文法的に整っていないという主張は一考に値するように思える。
若し「鼻毛が痒い」が文法的誤謬を含んでいたとして、然しそれは言語的誤謬だろうか。
そもそも、意味が通じている限りにおいて、或はそれが無視できない程度の有用な理解を齎す限りにおいて、文法的誤りは言語的誤りであろうか。
意味が通じている場合における文法的誤りとは如何なる誤りであろうか。
そして意味が通じている場合における言語的誤りとは、如何なる誤りであろうか。

つまり、こういうことだ。
鼻毛切らなくちゃ。

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文章に対する無駄な修飾で無意味に混乱を招く書き方をするのは私の悪癖であるが、意識的にやる場合は楽しんでやっているのだ。